『M-1グランプリ』で2023年、2024年と史上初の2連覇を果たし、お笑いの現在地を更新してきた令和ロマンの髙比良くるま。
くるまが初監督 / 脚本を手がけた短編映画『BREAK SHOT』。2026年5月にKアリーナ横浜で開催された令和ロマンの単独ライブ『RE:IWAROMAN』の企画として制作された本作は、児玉智洋(サルゴリラ)をはじめ、オダギリジョー、高良健吾、森川葵、前田旺志郎らが出演。深夜の高速道路で発生した渋滞を舞台に、全編ドライブレコーダー視点の定点カメラで進行するブラックコメディだ。
映画に詳しくなかったくるまが、様々なタイミングの重なり合いから作ることになった本作に込めたのは、培ってきた漫才の技法、そして自身の「お笑い観」である。
競技漫才の頂点を極めた稀代の戦略家のイメージの通り非常に冷静な視点を持ちながら、一方で素朴ともいえるお笑い観は、外に向かって開かれたものだ。
漫才と映画、爆笑による気まずさの解消、SNS上の言葉によって抽象化されてしまう自分と、具体的な景色を映し出すスクリーン。『BREAK SHOT』をめぐる話は、やがて日本のお笑いの未来、そして海外へ向けた可能性にまで広がっていった。
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「漫才の映画化」を実現した初監督映画『BREAK SHOT』
ー本作を制作することになった経緯を改めて教えてください。
くるま:令和ロマンは基本的に単独ライブをやりません。Kアリーナの単独もお願いされてやることになったので、意義を考えたときに「劇場でやってるライブをそのまま拡大してみよう」と思いました。
大きい会場でのお笑いライブはいろいろありますけど、たいてい音楽ライブっぽくなったり、いっぱい芸人が出てお祭りっぽくなるんですよね。Kアリーナの規模だと、相方(松井ケムリ)は楽器が弾けるし僕も練習中なので、バンドをやって間を繋いだりするものだと思うんですけど、それをやっちゃうと音楽ライブと一緒だなと。劇場と同じことをやるとなると、漫才と幕間の映像という「普通のこと」をスケールアップさせたかったんですよね。それが結果的に短編映画になったというか。

1994年9月3日生まれ、東京都出身。漫才コンビ「令和ロマン」として『M-1グランプリ 2023』『M-1グランプリ 2024』優勝。個人ではポッドキャスト番組『サンゼロゼロサン』のMC、『漫才過剰考察』(辰巳出版)の執筆など、活動は多岐にわたる。
ー幕間映像のクオリティーを上げていったら、自ずと映画に近づいていったと。
くるま:そうですね。相方とお互い内緒で一つずつ企画をやるというのがまずあって、そのドッキリの中に映画があった、という形ではあるんですけど。
ーくるまさんが設立されたクリエイティブスタジオ「KURUMADE」のサイトには「漫才の映画化」というキーワードが書かれています。これは『BREAK SHOT』を作ったことから発想されたんでしょうか?
くるま:単独に向けて映画を作っていく中で、だんだんわかってきたんですよね。お笑いのネタを作っているときは外に意識が向いているんですけど、映画作りは内省的なんですよ。逆の作業ではあるけど、活かせるものもあるなと。自分は漫才をいっぱいやってきた人生だから、内省的になると、結果的に漫才にぶつからざるを得ない。漫才を映画にしようと思ったというよりは、自分の個性を出そうとすると、漫才を避けて通れないという順番ですね。

ークリエイターとしての根本に漫才があることを再確認したという。
くるま:そうですね。削いで考えていったら、漫才の技法だけが残った。令和ロマンでやってきたのは、漫才の中でもかなり俗なネタなんですよね。特別な思考とか熱量がある漫才は、もうやっていなかったので。そういうのをやりたかった時期もあったんですけど、コロナ以降は相方が感じることにどんどんボールを投げていくという、ある種のクライアントワークになっていて。
「M-1」がある以上はそこでの評価も一定の意味はあるし、楽しかったんですけど、映画、アニメ、ドラマとかから題材をお借りして、それをズラして漫才にしてるだけだというコンプレックスもあったんですよね。僕の漫才は二次創作なんです。だから、その内容を映画に活かせるということではなくて、会話のロジックとか、面白く喋る技術は活かせるかも、と。

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お笑いの「笑えない状況をフラットにする」力
ー演芸としてのお笑いは、観客の笑いという身体反応を引き起こすことを最終目標にしていると思います。一方で映画は最終的にどう受け取るかは観客に委ねられており、『BREAK SHOT』もここから物事が大きく展開していきそうなシーン、漫才でいう「フリ」で終わっているように思います。これはお笑いと映画という形式の違いからくるのでしょうか?
くるま:『BREAK SHOT』はわかりやすいツッコミがないから途中で終わってる感じがあるんですけど、自分としてはボケきってる感覚なんです。編集の方と一緒に作業しながら、ゲラゲラ笑いました。みんなにもこれで普通に笑ってほしいみたいな感覚はありますね。
映画『BREAK SHOT』あらすじ
一部始終を見ていたのはドライブレコーダーだけだった——高速道路を走る、6台の車。車内では、言い訳や見栄、探り合い、仕事の焦り、誰かの追跡、動画再生数のための無謀な挑戦、そしてどうでもいい会話が続いている。それらの時間を記録していたのは、車内のドライブレコーダーだけだったーー。
くるま:自分の中で、芸人はお客さんとか他の職業の人よりも、めちゃくちゃゲラが多いと思うんですよ。面白い部分を見つけて、笑う力がすごく強い。だからお金や仕事があってもなくても、みんな幸せなんですけど。そういうことで、僕のお笑いレベルが高いんじゃなくて、むしろ低いんですよね。
ーくるまさんとしては、映画館が爆笑に包まれてもおかしくないのにと。
くるま:映画館という場所が笑いづらいなとは思いますけどね。なんというか、「気まずくない」みたいな状態が好きなんですよ。「爆笑させる」ための表現というのは、お笑いの限定的な用法だと思っていて。「M-1」のような、笑いたい人を笑わすのももちろんお笑いなんですけど、笑えないような状況をちょっとマシにするお笑いもあると思うんですよね。
―具体的にはどういった状況でしょうか?
くるま:たとえば企業のパーティーでお偉いさんのスピーチが全然面白くないんだけど、営業で行ってる芸人が上手いことフォローして、芸人のせいにして誰も傷つけずにやんわり笑いをとる、みたいな。そんなにウケてるわけじゃないけど、いるのといないのとでは結構違う。そういう芸人さんへのリスペクトがすごくあるんですよね。やりたいのはそういうことなのかもしれない。

ーマイナス100の最悪な状況が、お笑いがあることでマイナス60くらいになった、というような。
くるま:『BREAK SHOT』もなんだかんだあって玉突き事故が起こるんですけど、なかなかの事故じゃないですか。でも、そんな中でもこんなやつがいたからギリ笑えるよね、という。(立川)談志師匠がおっしゃっていた「落語とは人間の業の肯定である」という言葉にも通じるというか。お笑いにも、笑えない状況をフラットにする力がある気がするんですよね。少なくとも、僕は芸人をやってきて培った力で、何かあっても怒らないし、むしろ面白くなっちゃうということが多いです。それを人に伝えたいのかもしれないですね。
ー確かに、本作にはずっと気まずい不穏な空気が漂っていて、事故によってそれが解消される側面もありますよね。むしろホッとする、というか。
くるま:たかだか18分の短編映画ですけど、観る人によって感想もバラバラなんですよね。そうやってものを見る角度が増えれば増えるほど、笑える材料は増えると思う。お笑いが役に立つ瞬間があるとしたら、例えば嫌な上司のキャラクターが出てくるコントを観て笑ったら、現実の会社でうざい上司がいた時にそのコントを思い出してちょっと面白く感じる。映画も同じだと思うんですよね。観ることでいろんな感情を抱けば抱くほど、現実で起こる問題に対処する武器が増えると思うので。
ー劇場でのお笑いだけでなく映画にすることで、そういった社会との接点が増えていくと。
くるま:短期的に考えたら、短編映画を作ったからといってそれが爆発的に話題になるわけではない。でも、コロナ禍以降、お笑いはある程度パターンが出尽くした中でなんとかやっているので、その枠が広がらないとまずい瞬間が10年、20年のうちにやってくると思うんですよ。お笑いに限らず、全てのエンタメにくると思う。だから長期的に見て、映画を作ることが、お笑いの枠を広げるきっかけになればと思っています。
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「外に弾き出されたからこそ、何かやる必要がある」
ーお笑いのネタと映画では、発想の仕方は違いましたか?
くるま:条件がある中で作るという意味では、漫才とも近いです。違うのは、任せられる人がたくさんいるということで。芸歴が浅いので、作家さんと一緒にネタを作ってきたわけでもなく、もちろん相方は常に「いいね」と言ってくれたりはするんですけど、映画の場合はカメラマンとか音声、照明とか、全く違うジャンルのプロがいるわけじゃないですか。いろいろなレイヤーの方々が、映画を撮ったこともない初対面の僕に対してプロとして接してくださって、泣きそうになりました。俺、プロに弱くて。『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK)とか『ガイアの夜明け』(テレビ東京)とか見るとすぐ泣いちゃうんで。

ー映画は総合芸術と形容されますもんね。
くるま:その言葉はうっすら聞きかじってましたけど、いざやると文化としてのデカさに感動しましたね。お笑いって、日本芸能史の中で本当に後輩なんだなと。コロナ禍を超えて、配信ライブなんかをやるようになって、やっと資本主義のスタートラインに立った。でも、それが粋じゃないみたいな発想もあるし、みんなそこで揺蕩ってるんですよね。
僕はそこから外に弾き出されたからこそ、何かやる必要があると思っています。事務所を辞めることになるまでは、漫才の中で何かやろうといろいろ考えてはいたんですよ。「M-1」を連覇して、次は英語でやってみようかとか。相方に「めんどくさい」と一瞬で断られましたけど(笑)。映画を作れているのは、いい選択だという気がします。
ー事務所を辞められてから、活動の仕方は変わりましたか?
くるま:これ、メディアによっては嘘ついてるんですけど、事務所にいたときも自分で判断してやっていたので、正直全く変化がなくて。条件が変わったから目指すべきものが変わっただけなんですよね。助けてくれる人もいるし。芸人になってから、劇場を移籍したり、コロナになったり、毎年違う場所でやっていかなくちゃいけなかったんですよ。事務所を辞めてからの変化は、コロナ禍ほどじゃないですから。本当はもっと安定したかったですけど。
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芸人としての発言と「決めつけ」の連鎖から逃れるために
ー誰かが敷いたレールの上を走ってきたことはないと。
くるま:選択肢の中でどっちが有意義かを選んで、自我で押し通してきたとところはありますね。そういうことを伝えるためにも映画が一番いいんだろうと思うんです。
インタビューでいくらでも考えを話すことはできるんですけど、芸人をやっている限り、やっぱり世の中には信じてもらえないとも思っていて。この1年は、何かが起きたからそれについて考えて、対処するために行動してるだけなんですけど、アウトプットが多いから僕への解釈がどんどん分岐しちゃってる。だからよほどの友達とじゃないと、もうちゃんと喋ることは厳しいんだろうなと。知らない相手は、どんな切り抜き動画を見て僕を判断してるのかわからないし。
「くるまってこんな人だよね」と決めつける要素が本当に多いんです。何回「高卒だ」と言っても、学歴にコンプレックスをもっている人は「慶應出てるからインテリだ」と言うし、慶應に思うことがある人は、実際には全くそんなことないのに「金持ちだ」と。みんながそれぞれの尺度で判断してるから、抽象化から逃れられないんですよ。

―その点、映画は違うかもしれないと。
くるま:映画は具体的な景色をそのままスクリーンに映すから、唯一抽象化を強いられない手段だと思うんです。映画で発信することで、いつか自分が言いたいことが伝わればいいな、くらいの感じです。まあ、お笑いという仕事はお世話になったし好きなので、これからも抽象化には付き合うんですけど。
ーこれまでは映画のような作品の方が抽象的で、それをインタビューなどで具体的に説明して理解を得るというのが一般的なイメージだったと思いますが、それが逆転してるんですね。どれだけ説明しても「髙比良くるま像」は人によって違うから、映画を通しての方がむしろわかってもらえるかもしれないという。
くるま:そうですね。日本人が世界で一番Twitterを使ってた時期に、みんなで一生懸命言葉の賞味期限を短くしちゃったんじゃないかなと。誰かが何かを言ったら、みんなの脳内に検索窓がパパッと出てきて、好き勝手にどんどん派生して検索してる感じ。喋ってるんだけど、喋ってないというか。
ー本人が何か言ってももう届かない。
くるま:本人不在の場所で、勝手にリプ合戦してるみたいなイメージですよね。映画であっても、それぞれが勝手なことを思うんだろうけど、具体を観ていれば、具体的な感想が浮かぶと思うんですよね。
ー「誰かがこう言ってたらしい」というような曖昧な情報ではなく、少なくとも「映画を観た」という経験に基づく感想になりますよね。
くるま:そういう意味では、なるべく具体的な言葉が残せるメディアで喋りたいという気持ちもどんどん増してるんです。だから、今日みたいな機会はありがたいんですよ。もっとインプレッションがある場所もあると思うんですけど、結局ただの抽象化に寄与してるだけなんで。
