1956年創業の老舗ジャズ喫茶「ダウンビート」が、いま注目を集めている。レトロ趣味による再評価ではなく、現在進行形の場として熱気を帯びているのだという。
音楽評論家・柳樂光隆がその魅力に迫る。連載「グッド・ミュージックに出会う場所」第6回。
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ジャズの街・横浜で約70年営業を続ける老舗
ここ数年、友人から「ダウンビート」を勧められることが何度もあった。ダウンビートは横浜にある老舗のジャズ喫茶で、僕は随分前に行ったことがあった。でも、そのころとはずいぶん様子が変わっているようだった。今のダウンビートは特別なんだ、と友人たちが口をそろえて語っていた。そこまで言うんだったらと横浜まで足を運んだ。
横浜はジャズの街とも言われていて、昔からいくつものジャズ喫茶やジャズバー、ジャズクラブがある場所だった。戦後、1940年代半ばから1950年代の横浜には、市内や横須賀のアメリカ軍施設で働く軍人が暮らしている地区があり、アメリカ人向けの店も少なくなかった。その中には、スウィングからビバップへと移り変わる時代、最も刺激的な音楽であるジャズを求める人たちのための店もあった。
1933年に創業され、当時は入手が困難だったジャズのレコードを優れたオーディオで聴かせる店だったジャズ喫茶「ちぐさ」、1950年代半ばには日本におけるビバップの萌芽をとらえた貴重な記録でもある『幻の“モカンボ”・セッション’54』が録音されたナイトクラブの「モカンボ」といった名店も横浜にあった。日本のジャズについての本を読めば、これらの店に若き日の渡辺貞夫や穐吉敏子、伝説のピアニスト守安祥太郎らも足を運んでいたことが必ず書いてある。つまり、横浜は日本におけるモダンジャズの最重要地域だったわけだ。
1956年に創業された「ダウンビート」も、そんな名店と共に戦後の横浜のジャズシーンを担っていた老舗のジャズ喫茶だ。薄暗い店内にずらっと並んだ数千枚のレコード。巨大なスピーカーはAltec A-7。天井や壁にはアメリカのジャズ雑誌『ダウンビート』の切り抜きや古いポスターがびっしりと貼られている。すべてが「いわゆる昭和のジャズ喫茶」のイメージそのもの。店内は1960年代半ばに野毛に移転してからほぼそのままの状態らしい。初めて立ち寄った人は令和の時代にこんな空間が残っていることに驚くことだろう。僕が初めて行ったのは2000年代の半ばくらいだったと思うが、タイムスリップしたようでとても興奮したのを覚えている。
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リアルタイムで買い足され続けてきたコレクション
なぜ、こんな老舗が今、注目されているのか。その答えは今、オーナーとして店を運営している吉久修平さんの存在にあった。今年で創業から68年目のダウンビートは、1990年代までは初代のオーナーの安保隼人さんが経営していた。安保さんが亡くなった際、存続のために長年の常連客だった田中公平さんが引き継いだ。その後、2代目の田中さんが店を手放すことにした際、今のオーナーの吉久さんが手を挙げた。30代で若きオーナーになった3代目の吉久さんもまた、学生時代からダウンビートに通っていた常連客だった。つまり、ダウンビートはその雰囲気や選曲の傾向などを知り尽くしている常連によって守り続けられているジャズ喫茶なのだ。
3人のオーナーにより長い歴史を持つ店の雰囲気が守られてきたことは、行けばすぐにわかるだろう。それはタイムスリップしたような空間のことだけではない。最も重要なポイントはその選曲にある。
ダウンビートが開店した1956年はモダンジャズの当たり年だった。この年にはマイルス・デイヴィス『relaxin’』、ソニー・ロリンズ『Saxophone Colossus』、セロニアス・モンク『Brilliant Corners』が録音されている。つまり、ダウンビートではこれらの歴史的な名盤を新譜として買っていた可能性があるということだ。その後に出たマイルス・デイヴィス『Kind of Blue』(1959)、ビル・エヴァンス『Waltz for Debby』(1961)なども新譜だった時代。ここにあるレコードのコレクションはモダンジャズの黄金期にリアルタイムで買い足され続けてきたレコードの集積ということになる。吉久さんはそんなコレクションに自身で買い足したレコードを加えて、現在のダウンビートの選曲をしている。その選曲が本当に素晴らしいのだ。
モダンジャズの歴史をそのまま並べたようなコレクションには、ブルーノートやインパルス、プレステッジなどアメリカの有名レーベルのアルバムもあれば、ECM、MPSやENJAなどのヨーロッパのレーベルもある。その中には1970年代の短い期間に良作を残したイタリアのレーベルHoroなどの珍しいレコードも混じっている。ヒップホップにサンプリングされて1990年代以降に再評価されたレコードも、クラブジャズの文脈で2000年代に注目されたレコードも、近年、海外での人気が急騰している1960〜1970年代の日本のジャズのレコードも、すべてがリアルタイムに新譜で買われたものとして等しく棚に収められている。
何十年も繰り返し使われ続けてきたレコードはジャケットが擦れたり剥げたりしている。吉久さんはそれを慣れた手つきで再生中のレコードを飾る定位置に置く。そんな歴史を感じさせる光景がとても美しい。吉久さんはぼろぼろのレコードを現在の新譜と組み合わせながら、「ダウンビートらしい」選曲で店の雰囲気を作っている。
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歴史を継承し現在に接続する、老舗の理想型
この日、僕は吉久さんにいくつかのリクエストをさせてもらった。僕が「ピアノトリオを聴きたいです」と伝えると、スティーヴ・キューンの『Three Waves』(1961)をかけてくれた。名ドラマーのピート・ラロカのドラムのシンバルの音色が豊かな響きで店内に響き渡る。「新しい録音はどうですか?」と伝えると、クリスチャン・マクブライド・ニュー・ジョーンの『Prime』(2023)。トランペットとテナーサックスがものすごくパワフルに飛び込んできた。逆に吉久さんが「こんなのも相性がいいんですよ」と選んでくれたのがダニエル・ヴィジャレアル『Lados B』(2023)。ヒップホップを通過したざらっとしたプロダクションやサイケデリックな音像を心地よく聴かせるスピーカーの鳴り方に唸ってしまった。ダウンビートのサウンドシステムは様々な時代のレコードの良さを最大限に引き出していた。そして、時代もスタイルも異なるレコードが自然に繋がっていった。
吉久さんは「ジャズのことは詳しくないですよ」と謙遜するが、彼はダウンビートのレコードのコレクションの価値を誰よりも理解しているし、ここのヴィンテージのサウンドシステムがどのレコードをどんな風に再生してくれるのかを高い精度で把握している。2017年からカウンターの中でレコードをかけ続けている彼はダウンビートの空間の特性とその魅力を誰よりもわかっているのだろう。「ダウンビートという楽器」を誰よりも美しく奏でられるのが吉久さんなのだ。
それは、68年目を迎える店の歴史とその世界観をそのまま受け継いでいるからこそできることでもある。新譜に関しても、ここのコレクションに加えるのにふさわしいものが買い足されている。同時代性は取り入れながらも、時代の空気に流されていないし、ダウンビートという箱の魅力には逆らっていない。各時代の音を取り込み続けてきた「生きた音楽」としてのジャズを提示しながら、ジャズの歴史へのリスペクトも失わない。時代に合わせてブラッシュアップされているのに、同時にずっと変わらない場所として存在することもできている。現代における老舗の理想的なあり方かもしれない。
そんな場所が常連客やジャズマニアだけのもののままでいられるはずもなく、吉久さんの代になってから新たな客が立ち寄るようになった。僕にダウンビートを勧めてきたのはそんな「今のダウンビート」に魅了された新しい常連たちだったわけだ。
《ダウンビートが選ぶ5枚》
取材前日の営業でかかっていたものを挙げていただいた。
・Bill Frisell 『Rambler』
・Johnathan Blake 『Passage』
・Horace Silver 『Blowin’ The Blues Away』
・菊地雅章 『But Not For Me』
・Tete Montoliu 『Yellow Dolphin Street』
※菊地雅章 『But Not For Me』はサブスクリプションサービスにありません
店舗情報
ダウンビート
住所:神奈川県横浜市中区花咲町1-43 宮本ビル2F
営業時間:16:00〜24:00
定休日:月
http://www.yokohama-downbeat.com