甫木元空と菊池剛からなるバンドBialystocks(ビアリストックス)の3rdアルバム『Songs for the Cryptids』のリリースに際した短期連載。Bialystocksの音楽に心を盗まれた3人に、本人に向けた手紙を綴ってもらった。
小林私に続く2人目は、『爆音映画祭』のプロデューサーであり、映画批評家の樋口泰人が登場。樋口が代表を務める会社「boid」では甫木元空が監督を務める長編映画『はだかのゆめ』を配給、また2025年公開の甫木元監督映画『BAUS』も樋口がプロデュース。『BAUS』は当初監督を担当する予定だった青山真治が亡くなり、樋口がその遺稿を甫木元に託した。甫木元の表現に対して、それだけの信頼を置く理由はどういうものだったのだろうか。樋口から、甫木元に宛てた手紙が届いた。
INDEX
ふたつのこだまーー青山真治の遺稿を甫木元空へ託した想い
ふたつのこだまについて考えている。ひとつは太平洋から響いてくるこだま、もうひとつは日本海から響いてくるこだま。どうしてそんなことを思ったのかというと映画監督としての甫木元空最新長編『BAUS』の冒頭の波を見てしまったからだ。
あの撮影地はいったいどこだったのか、自分がプロデュースしていながらすでに記憶のかなたである。物語の設定上はかつては鰊(にしん)漁で栄華を誇った青森の深浦で、その鰊漁が不振を極めいよいよ落ちぶれるばかりということが誰の目にも明らかになった「斜陽」一直線の時期の海の風景、ということになる。だがそんな人間の営みにはまったく関係なく波は常にやってきて、その冷たさと陰りによって、いつであろうとわれわれは斜陽まっしぐらなのだと思わされてしまう冷たい痛みを、その波はわれわれの心にそっと残していく。その蓄積としての深浦の海、それが『BAUS』全体を覆っていたのではないかとさえ思う。
映画のシナリオハンティングも兼ねて一緒に深浦に行ったのは2022年の9月だった。秋というにはいくら北国でも十分に夏の日差しが残る深浦の街は、もはや単なる北国の港町のひとつにすぎなかったけれども、そのところどころにあるかつての栄華の痕跡が、なぜか過去ではなく現在のものとしてわれわれを興奮させたのを憶えている。栄華の記憶ではなくいずれ再び訪れるであろう未来の栄華が、まさに今そこにあるくすんで落ちぶれた町のどこかで輝き始めているのではないかとさえ思えるような現在性、果てしなく続く下り坂を後ろ向きに、つまり上を向きながら下っていく危うく捻じれた一歩一歩の確かさを、われわれはそこに感じたと言ったらいいか。
同じ年の3月、『BAUS』の監督予定だった青山真治があっという間に亡くなって遺されたシナリオを前に右往左往していたわたしの前に、「ようやく完成しました」と差し出された『はだかのゆめ』という甫木元の当時の新作映画の持つ奇妙な明るさ、ユーモアと言ってもいいのだが、もはや生死に関係なく人は営みを続けるものなのだと泣き笑いで語りかけてくるその空気、気配は、甫木元なら青山の遺したシナリオの壮大さ、優雅さ、邪気、狂気、そして愛を失うことなく新たな映画として思わぬ道を切り開いてくれるのではないかと思わせるものだった。
人はたとえ死んでしまったとしても、酒におぼれてしまったとしてもある日突然不意に新しい世界と出会うことができる。出会ったところで我々に何ができるわけではないし、その先に行くのも行かないのもわれわれにゆだねられつつそれさえもまたわれわれの自由にはならない何かの力によって決められてしまうこともあるのだが、『はだかのゆめ』に映る甫木元のルーツでもある高知・四万十の川や海や山や草原の、それまでの時間の持続を断ち切るような突然の出現が、それでもその先はあるのだと告げる。いつどこで訪れるかわからないそんな事故のような幸運を、それぞれが抱えながら生きているのだと。