オーストラリアから登場したシンガーソングライター、タマス・ウェルズ。
画家の父親のもとに生まれ、The Beatles『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(1967年)を何度も繰り返して聴くうちに音楽に目覚めた少年は、やがて世界の不平等さに疑問を抱いてアジアへと移住する。そして、異国に渡っても生み出され続けた音楽は、Sigur Rósのようなイノセントさ、スフィアン・スティーヴンスを思わせる繊細なメロディーを持っていた。
昨年、タマスはパンデミックと父の死を乗り越えてつくりあげた6年ぶりの新作『To Drink up the Sea』を発表。ますますソングライティングには磨きがかかり、多彩な楽器を導入した豊かなサウンドで新境地を開いた。彼を創作に向かわせるものは何なのか。久しぶりの来日公演を控えるなかで、音楽に込めた想いや新作について話を訊いた。
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かつて「Nick Drake meets Sigur Rós」と評された歌声は、いかにして育まれたのか
―タマスさんが生まれ育ったのはメルボルン近郊の町だとか。どんなところですか?
タマス:メルボルンから車で2時間ぐらい離れた、海辺のとても小さな町です。父は画家で風景を描いていて、作業をしているときは音楽をかけたりはしなかった。だから、町も私の家もとても静かでした。
―そんななかで、どんなふうに音楽に興味を持ったのでしょうか。
タマス:最初は親の勧めでピアノを習っていたんですが、そんなに好きじゃなくて練習にも身が入らなかった。それが10代の頃、突然、ピアノを弾いてみたいと思ったんです。その後、大学に進学したときにできた友達の多くがメルボルンの音楽シーンで活動していて、突然目の前に音楽の世界が広がりました。
―それまで音楽は聴いていなかったのでしょうか?
タマス:学校から家に帰ったら家族と過ごす、という日々だったので、友達とレコードを聴いたり、ライブに行ったりすることはありませんでした。でも、両親が持っていたThe Beatles『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のカセットテープを何度も繰り返して聴いていました。自分で聴いてたのはそれくらいですね。
―タマスさんの曲を聴くと、1960年代のフォークミュージックからの影響を感じるのですが、The Beatlesしか聴いていなかったとは驚きです。
タマス:そういえば、初めてのライブで、演奏後に観客の一人が「Simon & Garfunkelみたいだった」と感想を伝えてくれましたが、彼らの音楽は聴いたことがありませんでした。音楽活動をはじめてから、素晴らしい1960年代のアーティストを発見し続けています。
たとえば、15年ほど前、日本に行ったときに見つけたLambert & Nuttycombe。彼らはとても美しいメロディーを書くんです。先週聴いたThe Velvet Underground“Sunday Morning”もよかった。
―The Beatlesしか聴いてなかったあなたが、アコースティックギターの弾き語りというスタイルを選んだのはどうしてでしょう。
タマス:そういうシンガーソングライターのライブを観て親近感を感じたというもありますが、現実的な問題も大きかったんです。大学の寮に住んでいたので、あまり大きな音は出せないし、お金を持っていなかったので買える楽器といえばアコースティックギターくらいでした。もし、エレキギターを買う余裕があったら、別の音楽をやっていたかもしれませんね。
―性格的にもアコースティックギターが向いていたのでは?
タマス:そうですね。自分は子どもの頃から内気な人間で、それは音楽にも表れていると思います。ライブで注目を浴びるのが好きなミュージシャンもいるけど、私はそんなタイプではないですし。
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美しいメロディーの背景にある「人間の不平等さ」への関心
―内向的なあなたが、ミャンマーという異国に6年(2006年〜2012年)も暮らして、NGO団体で活動しながら現地の人と交流したというのも驚かされます。何があったのでしょうか。
タマス:子どもの頃から人間の不平等さについて考えること多かったのですが、東南アジアを何度か旅行したときに極度の貧困を目の当たりにして、何か援助できないかと考えるようになりました。
特にインドネシアに滞在したとき、オーストラリアからそんなに遠くない国でこんなにも苦しんでいる人や、機会に恵まれてない人がいることにショックを受けました。それで大学で公衆衛生について学び、人道的な仕事に就きたいと思ったんです。そして、妻と一緒にボランティアに応募してミャンマーに行くことになりました。
―現地での生活はいかがでした? 当時、ミャンマーは軍事政権で、民主化を求めるアウンサン・スーチーさんが長期にわたって軟禁状態に置かれていましたね。
タマス:ミャンマーに移住した当初は、私たちがどこに行こうとしているのかチェックするために軍関係者が常についてきました。でも、私がオーストラリアに帰る頃には次第に開放的になり、未来に希望が持てるようになっていた。とても強烈な経験でしたが、素晴らしい日々でした。
―あなたがオーストラリアに帰国されたあとにミャンマーは民主化に向かいます。社会が変化する激動の時期に立ち会ったんですね。
タマス:帰国して10年くらい経ちますが、現在も1年に2回はミャンマーに行ってボランティアの仕事をしています。現地の人たちが苦しむ姿を目の当たりにし、国を少しでもよくしようと戦い続けている人たちと親交を深めてきたので、帰国後も彼らをサポートすることが大切だと思っているんです。
タマス:オーストラリアも日本と同じように、一見すると裕福な国であるにもかかわらず非常に苦しんでいる人たちがいます。一方で、極度の貧困に直面している人々にはチャンスすらない。
ミャンマーにおける貧困は、軍事政権によって苦しみが極端なレベルにまで引き上げられています。でもミャンマーの人々は、経済的な豊かさだけが人生の目標ではないことを理解しています。ミャンマーで暮らすなかで、そういった彼らの考え方に共感しました。
―ミャンマーで暮らしながら曲を書いたり、アルバムを制作されていましたが、異国での創作活動はいかがでした?
タマス:やはり、現実世界のプレッシャーや心配事からの逃避だったといえるかもしれません。音楽には自分だけの小さな世界があって、そこにいるあいだは外の世界のことを忘れることができる。
でもそうやって音楽の世界に没入して自分にとって大切なものを掴み取ろうとしても、そうする度にどこかに行ってしまうんですね。まるで逃げ水みたいに。メルボルンに帰ったいまも、私にとって音楽は現実のシリアスな問題から一時的にエスケープできる場所なんです。