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NEWS EVENT SPECIAL SERIES

日本のチェーホフ上演におけるひとつの到達点 ケラ版『桜の園』レポート

2025.1.24

#STAGE

撮影:宮川舞子

上演する時代に応じてその時々に発見をもたらす古典

本作を群像劇たらしめるのは、俳優たちのアンサンブルだ。コートを羽織った天海祐希演じるラネーフスカヤ夫人が、パリから愛する邸宅に戻ってくる初登場シーン。その瞬間、懐かしさに浸る天海の、凛とした美しさで舞台上の空気が支配され、息を飲まされる。天海はサバサバとさっぱりとした台詞回しを駆使しながら、呑気に構える世間知らずな人物を演じた。そんな彼女は、ロパーヒンに家を買われた現実を知った際に、椅子に座った状態で手で顔を隠し、そのまま膝に前かがみになって泣き崩れる。

ラネーフスカヤ夫人(天海祐希)の初登場シーン / 左からラネーフスカヤ夫人(天海祐希)、トロフィーモフ(井上芳雄)、ヤーシャ(鈴木浩介)、アーニャ(大原櫻子)、ロパーヒン(荒川良々)撮影:宮川舞子

他のチェーホフの作品に比べて、『桜の園』では感情を露わにする点が目に付く。ロパーヒンとの結婚が叶わないワーリャも同様だ。ロパーヒンに失望したワーリャは、邸宅の鍵束を地面に投げつけて怒りを露わにする。だがワーリャの将来を想ったラネーフスカヤ夫人はロパーヒンに、彼女に告白するように薦める。人々の別れの日、ロパーヒンとワーリャは最後の会話の機会を持つが、微妙な時間が流れてもどかしい。そこに、外から呼びかける声に応えて、ロパーヒンはいたたまれない空気から逃れるように、部屋から飛び出してしまう。背が高くメガネをかけた、地味な風貌の峯村演じるワーリャは、その場にへたり込んで泣き崩れる。

極めつけはロパーヒンだ。ラネーフスカヤ夫人たちに自分が領地を競り落としたことを告げた後、農奴の息子だった自身の成功を滔々と語るシーンは、本作の見せ所の一つだ。なぜ忠告に従わなかったのかとラネーフスカヤ夫人に問いかけつつも、ロパーヒンは領地が自分のものになったことを、半ば自暴自棄になって一同に自慢するように宣言する。今で言えば若手起業家のようなロパーヒンは、スマートでニヒルな俳優が演じるイメージがある。だが荒川良々は一連の台詞を、叫ぶように嘆いて語る。荒川は高身長で恰幅が良いが、基本的には朴訥で人間味のある人物を造形した。鼻もちならない人物ではなく温かみがある分だけ、ラネーフスカヤ夫人を慕う本気の気持ちがストレートに伝わってくる。だからこそ、彼が発する「やんごとなき時代は早く終わってほしい」という旨の台詞は、時代や社会への無念さや皮肉を感じさせて、本作を象徴していた。

本作には、ロシア革命の息吹が先取りされていると先述した。1861年の農奴解放令によって、農奴はロパーヒンのように自由な仕事に就き、生きることができるようになった。それによって近代化と産業化がもたらされたロシアだが、労働者たちの支持を得たレーニン率いるボリシェヴィキがロシア帝国を打倒し、ソビエト社会主義共和国連邦へと至る。インテリ層が社会を支配する現状のロシアに否定的なトロフィーモフは、労働を重視することで未来が拓けると信じている。トロフィーモフはアーニャと共に本作においては数少ない、将来への希望を抱く新世代を体現する人物だ。ラネーフスカヤ夫人に代表される貴族階級をロパーヒンが打倒する。さらに金にまかせて社会を支配するロパーヒンを打ち壊すのが、トロフィーモフの世代であろうことが予感される。そして古い体制の終焉を象徴するのが、屋敷と心中する老僕のフィールス(浅野和之)である。登場人物たちがそれぞれの地に旅立ち、屋敷の灯りが落とされて錠がかけられた後、病院に入院したはずの認知症のフィールスが別の部屋からとぼとぼとやってきてソファーに横たわる。自身が忘れられたことをボソリと嘆きつつ、寝て待とうと言って眠る。そこに桜の園を斧で切り倒す音が何度も響き渡り、ゆっくりと暗転する。

浅野が演じるフィールスは、昔の思い出に浸ったまま旧秩序の崩壊を丸ごと背負う弱々しさを表現した。2024年暮れの視点から本作を眺めれば、旧秩序と新秩序の二項対立だけではなく、家を追われて出奔するラネーフスカヤ夫人は時代や状況に対応できないまま、それでも生きざるを得ない人々を集約しているように感じられた。一方で、紛争によって生じるシリアやガザの難民にも見える。上演する時代に応じてその時々に発見をもたらすのは、古典ならではの特性である。

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