キッチンの一角に佇む折坂悠太の姿をとらえたアルバムジャケット。暮らしのワンシーンを切り取ったその写真からも伝わるように、コロナ禍のヒリヒリとした空気をまとった前作『心理』(2021年)から一転、ひさびさの新作『呪文』には穏やかで心地のいい風が吹いている。
昨年末に先行リリースされた“人人”(BS-TBSドラマ『天狗の台所』主題歌)で示されていたように、収録曲の半数には静かな歌の風景がゆったりと広がっている。その一方で、“凪”や“努努”にはsenoo ricky(Dr)、宮田あずみ(Cb)、山内弘太(Gt)を中心とする骨太なバンドのグルーヴが渦巻く。ラストを飾るのは希望に満ち溢れた“ハチス”。いずれの楽曲からも現在の折坂の好調ぶりが伝わってくる。
多様な歌の数々をまとめているのは、『呪文』という意味深なタイトルだ。2023年に音楽活動10周年を迎え、新たな10年へと歩み出した折坂が綴る生活の歌。それは決してレイドバックしたものでもなければ、単なる原点回帰的なものでもない。その背景には、前作『心理』以降のスランプと、そこから脱出するための意識変革の試みがあった。抜けるような青空が広がる5月の午後、折坂悠太に話を聞いた。
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「残りの人生、こんな感じで生きるのは嫌だ」。自分自身を見直した活動10周年を経て
―去年の12月にお会いしたとき、「折坂さん、元気そうだな」と思ったんですよ。健やかな感じがしました。
折坂:去年の10月ぐらいに一度気持ちが落ちちゃったんですよね。「残りの人生、こんな感じで生きるのは嫌だ」と思って、生活を見直すことにしたんです。それ以降、走るようになったし、柔軟体操をするようになりました。あとはお酒を飲まなくなったり。そういうことをちょっとずつやっていくうちに、自分の弱い部分というか、これまで苦しんできた理由がだんだんわかってきたんです。
―今回のアルバムはそういった心身の変化の真っただ中でつくったわけですね。
折坂:そうなんですよ。ちょっとずつ掴みはじめた実感みたいなものを曲にしたものもあるし、変化の途中でこのアルバムをつくっていました。
―昨年6月にはベルリンに行きましたよね?
折坂:そうですね。池間由布子さんやNRQの作品を手がけた(エンジニアの)大城真さんの音づくりが好きで、今回の作品は大城さんに録ってほしかったんですね。でも、大城さんはベルリンに留学されているので、今回はちょっと難しいと思っていたんです。でも、スタッフの「ベルリンまで行けばいいんじゃない?」という鶴の一声で行くことになりまして(笑)。
―ベルリンでは活動初期の代表曲“あけぼの”を再レコーディングしました。リリースの際、折坂さんは「この曲をせーのでとった五分間、何かが変わった」とコメントをしていましたが、「何か」とは何だったのでしょうか。
折坂:何なんですかね……生きていれば常に変化しているわけで、そのことをベルリンで自覚したっていうだけの話ではあると思います。
折坂:“あけぼの”は一発録りで録ったんですけど、音楽にはドキュメンタリーという側面があって、曲がはじまったら終わりまで、その「営み」みたいなものを色濃く反映させたいと思ったんです。
―2023年6月の、その瞬間のドキュメントという感覚?
折坂:まさにそういうものだと思いますね。だから“あけぼの”を聴くと、あのときのことがすごく蘇ってくるんです。6月のベルリンの風景のこととか。
―昨年は音楽活動10周年を記念した弾き語りツアーも行なわれました。10年前、折坂さんが初めて本格的なソロライブをやった東京・三鷹の「おんがくのじかん」でも久々にライブをやりましたよね。
折坂:「おんがくのじかん」って見た目はかわいい箱なんですけど、私には「孤高の者たちが集まる場所」っていうイメージがあるんです。
10周年企画のときは、「俺はここで通用するやつになれてんのか?」みたいな気持ちもあったんですけど、いろんな人がいるなかのひとりとして舞台に立つことができた。店主の菊池(さとし)さんもおもしろがってくれたし、嬉しかったですね。
―そういった去年の活動に関しては原点回帰的な意識もあったんでしょうか。
折坂:次の作品に向けて原点回帰をしようという意識はそこまでなかったと思います。自分にとっては、近年活動をともにしている「重奏」というバンドの存在がすごく大きくて、一人ひとりとの関係も濃くなってきたんですね。バンドの表現として充実している一方で、「折坂悠太」という自分ひとりの名前でやるものにもう一度向き合わないといけないなと。いい機会だなと思って弾き語りツアーをやったんですよ。