「演劇の枠組みに当てはまらない」と評されることが多いコレクティブ、バストリオ。舞台上でパフォーマンスを行っていて、役者がいて、台詞がある。その点ではもちろん演劇だと言えなくもない。
しかしそこに明確なストーリーはなく、戯曲もないという。その分かりづらさの分、鑑賞のハードルを高く感じさせてしまうこともあるかもしれない。だがしかし、その必要は全く無い。主宰・今野裕一郎はインタビューで「川を見てるみたいに皆が観てる」と語っていた。実際のところ、どんな気持ちになるのだろうか。バストリオに限らず観劇体験が多くはないという文筆家のつやちゃんが、2025年2月〜3月に上演された舞台『トーキョー・グッドモーニング』を実際に体験してみての論考を綴った。次回公演『セザンヌによろしく!』を前に、参考となれば幸いだ。
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パフォーマンス作品を制作するコレクティブ。2010年立ち上げ。メンバーは今野裕一郎(主宰 / 演出家 / 映画監督)、橋本和加子(パフォーマー / 制作)、黒木麻衣(ペインター)、坂藤加菜(パフォーマー)、中條玲(パフォーマー / 制作)、本藤美咲(音楽家)。
『トーキョー・グッドモーニング』にあるバストリオらしさ
「牛は飛ぶんやで!」
「嘘つくなや」
「飛んでたで」
「見たんか?」
「見てへん」
「この目で見たもんだけ信じてた方がええで」
「勝手に飛びこんでんねん」
「なにが?」
「この目は見てないんやけど、映り込んで飛びこんでんねん」
「なに言うてんねん」
「そういうのあんねんで」
「嘘や」
『トーキョー・グッドモーニング』の劇中、キャッチボール的に交わされる数秒の会話である。前後にもたくさんのやり取りがあり、その応酬は、いささか掛け合いラップのようなリズムを生成しながら観客をぐいぐいと引っ張っていく。ほんの一端を抜き出しただけでも、そこにはバストリオらしさが濃密に宿っている。

バストリオらしさとは何か。まず挙げたいのは、現実と想像の境界が静かに滲んでいる点だ。「牛が飛ぶ」という発言は明らかに現実とはズレているが、それに対して「見ていないけれど、映り込んで飛び込んでくる」という奇妙な現象がさらりと語られる。ここでは、「目で見たもの=現実」と「見ていないが感じたもの=嘘」という単純な二項対立が、崩されているのだ。つまり、確認された事実だけでなく、感覚や想像の領域にも存在しうるものは確かにある――バストリオは、そう言っているのである。
さらに彼らは、理解できないものを突き放さない。この会話は、通常であれば「は? 何言ってるの?」で終わるものだろう。しかしこの世界においては、「何言うてんねん」と一応ツッコミつつ、そのまま「わからなさ」を泳がせ続けているように見える。理解できないことを即座に排除せず、異質なものをそのまま漂わせるという態度があるのだ。そして、会話のリズム自体も、ズレと漂流を表現している。このやりとりを聞いていて感じるのは、テンポよく掛け合いながらもまったく話が収束しないという奇妙な違和感である。質問が答えを生まず、答えがまた別の謎を呼び、どんどん「わからなさ」が積み重なるという不思議。つまり、対話で意味を解決しようとせず、むしろ対話を通して「揺れ」を深めている。これは、バストリオが目指している「ズレたまま共に存在する」感覚を、そのまま言葉のリズムに反映しているがゆえのやり取りだろう。

以上のように、たった数秒の小さな会話の中に、存在の不確かさ、現実と想像の溶けあい、理解不能なものへの許容、言葉による漂流、ズレたまま続く共存在……等々が漂っている。『トーキョー・グッドモーニング』とは、そういった作品なのだ。

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物語の定型から逸脱するパフォーマンス
その日、私は東京・三河島の駅から歩き劇場に向かっていた。初めて降り立つ町は、自己紹介をしないままに会話がどんどん進み少しだけ不安になってしまうような、そんな期待感と心配を喚起する。どうやらコリアンタウンのようで、韓国料理屋を横目に見ながらまだまだ歩き続けると「元映画館」なるアートスペースが現れた。廃映画館を改修してつくられた空間は、時間とともに静かに積み重ねてきた気配そのものが、不思議な感覚を醸し出している。
周囲の少し寂れたレトロ感も含めて、『トーキョー・グッドモーニング』の舞台は、まさに時間と空間のズレの中に溶け込んでいた。席に座って周囲を見渡してみると、思っていた以上に若いお客さんが多いことに気づく。赤ん坊を連れてきている人もいて、独特のゆるい空気になんだかホッとする。バストリオを知らない者は、『トーキョー・グッドモーニング』というタイトルから、ある種の定型的な舞台をうっかり想起してしまうかもしれない。都市を舞台に、匿名性や孤独といったテーマに翻弄される若者を描く青春劇——どこかにありそうだ。けれどももちろん、この日体感したパフォーマンスは、そんな小ぎれいにまとまるものでは全くなかったのだった。


上演が始まると、まずはコント風のやりとりが始まった。何かが憑依したかのようなコミュニケーションがどんどんドライブしていき、会話の意味はいまいち分からないが、伸びる声とリズムが気持ち良い。居酒屋で隣のテーブルから断片的に聞こえてくる話なんて、まさにそんな感じだと思う。全容はつかめないけれど、なんとなくこんな話をしているのかな、という感覚。時たま、大きな笑い声とともにすかさず入るツッコミ、その繰り返しが生むグルーヴ。バストリオの魅力とは、つまりそういうことである。固定された役割や直線的な時間意識、物語というものは得てして置いてけぼりにされ、「今」を貫くエネルギーがひたすらその場を振動させて過ぎ去っていく。
それらは瞬間的に立ち上がり、すぐにまた別のものが即座にやってくるので、徹頭徹尾かみ合わずズレているように見える。役名すらあいまいな登場人物たちが、ぎこちない会話を交わし、時に無意味な行動を繰り返したりもする。誰かが何かを失敗し、それが笑いに昇華されたり、されなかったりもする。誰かがズレたそばから、誰かがすぐにズレたりもする。すばやい会話、あるいはひとり言によって、時間が伸びたり縮んだりする。

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トーキョーの街の「感触の濃度」を体験できる
こうした不器用さは、従来の演劇的リアリズムとは明らかに異なる質感を持っているだろう。通常の演劇なら、失敗や間違いは演出上の意図として整理され、意味づけされるからだ。しかし『トーキョー・グッドモーニング』においては、それらは放置され、いずれトーキョーの空気の中へと消えていく。観客もまた、そこに何か意味を与えようとしては裏切られ、ただ「なにかが起こった」という実感にのみ向き合うことになる。人は時に川になり、時にクジラになる。重要そうな局面が常にサラサラと流れていく様子は、せせらぐ水のごとし。それにしても、本作は至るところで「水」のモチーフが繰り返されるのだから、あながち間違ってはいない。定型にとどまらないフルイドな感覚は、目の前でどんなことが繰り広げられようが、ずっと通底している。

そういった物語の歪み、会話の逸脱、時間の歪曲といったものが私たちの解釈を拒んでいく中で、ただひとつ強烈な印象を残すものがあって、それは「感触」と形容すればよいのだろうか。さまざまなものが織りなすズレの中でひときわ観客を刺激するのは、役者の発する声の輪郭であり、大量に舞い落ちる紙のひらひらとした重さであり、楽器から漏れだす熱い音の粒であり、水のパシャっとしたテクスチャである――つまり、「感触」としか言いようのないものが、ズレとズレの間から歪な形で迫ってくるのだ。

『トーキョー・グッドモーニング』は、ズレが意味を破壊することで、俳優の身体の圧力やモノの存在感が、感触そのものとして私たちの肌に流れこんでくる作品なのである。そう、それはトーキョーの街の、あの何とも言えないカタチの空気を身体で「浴びる」感覚、つまり舞台の材質のザラつき、人の動作の速さと遅さの奇妙な緩急、言葉が言葉になる寸前の「声」の輪郭といったものを、「感触の濃度」として体験できるパフォーマンスなのだ。