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トム・クルーズ主演『DIGGER/ディガー』レビュー 風刺と自己批判の符号に疑問

2026.10.9

#MOVIE

『バベル』『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』『レヴェナント:蘇えりし者』のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督最新作にして、トム・クルーズが主演を務めた映画『DIGGER/ディガー』が、10月9日(金)から日本でも劇場公開となった。

「ネタバレ禁止」のため事前情報が制限されていたこともあり、全米公開初週の興業は苦戦が報じられており、また、鑑賞者や批評家の評価は、絶賛と酷評に二分しているという。

本記事では、評論家・柴崎祐二が、作中の音楽使用をふまえながら同作を批判的に論じ、いまの社会において映画はどうあればよいのか、という問いを投げかける。

※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。

序盤で明らかにされる、ネタバレが禁じられた「ある構造」

映画の歴史を振り返ると、その130年を超える歩みの中に、劇中劇という構造が敷かれた作品が思いの外数多く存在することに気付かされる。ごく初期の例としては、ある田舎者の男性が、スクリーンに映る列車等を現実だと勘違いする短編作品『田舎者とシネマトグラフ』(1901年、監督:ロバート・W・ポール)があるほか、その後も、D・W・グリフィス『飲んだくれの改心』(1909年)、バスター・キートンの『探偵学入門』(1924年)、ジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンの『雨に唄えば』(1952年)、ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』(1963年)、フランソワ・トリュフォー『映画に愛をこめて アメリカの夜』(1973年)、ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』(1977年)、ジャック・リヴェット『彼女たちの舞台』(1989年)、ロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』(1992年)、チャーリー・カウフマン『脳内ニューヨーク』(2008年)など、数多くのエポックメイキングな作品が連なっている。また、こうした劇中劇構造は、もはや巨匠と呼ぶべき評を確立しつつある我が邦の濱口竜介監督がかねてより繰り返してきたものでもあり、今もなお――ひょっとすると今こそ一層強く――才能ある映画作家たちを魅了し続けている形式だといえる。

『田舎者とシネマトグラフ』(1901年、監督:ロバート・W・ポール)

メキシコ出身のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは、現代において、そうした構造にもっとも自覚的かつクリティカルな仕方でアプローチをしている作家の一人と言えるだろう。中でも、マイケル・キートン演じる落ち目の俳優リーガンが、起死回生のブロードウェイ劇に挑むという劇中劇構造を採用した『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)は、そのワンカット風の超絶技巧的なカメラワークや奔放なプロット運びを含めて、多くの映画ファンに驚きを与えた問題作であった。彼はその後も、(明確な劇中劇構造ではないものの)現実と記憶、夢が相互に侵食する長大な作品『バルド、偽りの記録と一握りの真実』(2022年)に挑むなど、特に近年において、自作の主要なモチーフとしてメタ的な構造を採り入れることに力を注いできた。

今回紹介する『DIGGER/ディガー』は、そんな彼のメタ構造志向を、最も大規模な形で敷衍してみせた作品と言えるだろう。――と書きながらも、見た目上(?)の設定は思いの外シンプルだ。観客はまず、トム・クルーズ演じるエネルギー産業大手ロックウェル社代表の「ディガー」が、自身の傲慢極まりないビジネス戦略によって、地球規模の気候危機を引き起こしてしまうというドタバタ劇につきあわされる。彼の相棒(?)たる(ジョン・グッドマン演じる)アメリカ大統領氏もまた、極度に戯画化された悪漢で、(誰かさんのように)紺・赤・白のパワースーツに身を包み、威圧的な言動を繰り返す。

なんという品のないスラップスティックだろう――。観客がいい加減うんざりし始めた頃、突如、ディガーと大統領の二人を取り囲む窓の外の風景に美術スタッフの頭がぬっと現れ、天の方向から演出家らしき人物の声が聴こえてくる。そう、この悪辣で馬鹿らしいドタバタこそは、この映画の中でリハーサルが行われている風刺舞台劇――つまり劇中劇の一幕だったのだ。

一方、(トム・クルーズが演じる)ディガーを演じる俳優カーティス・マークソンは、その舞台劇『Fossil Fools(化石の愚か者)』のリハーサルの合間に楽屋にこもり、落ち着きなく方々に連絡を取り続けている。娘の搭乗した飛行機が消息不明となっており、そのことが気になって仕方ないのだ。どうやら彼は、妻との関係もうまくいっておらず、プライベートな問題を抱えているようだ。しかも、自らが演じるディガー・ロックウェルのキャラクター造形にも納得がいかないし、そもそも、荒唐無稽で誇張が過ぎる脚本や演出自体にも我慢がならない。ストレスは溜まる一方だ。だが、初日の公演を控える中、彼の不満をよそにリハーサルはどんどん進んでいく。

『バードマン』、カサヴェテス『オープニング・ナイト』との相似

具体的に語られていることの明らかな違いはあるにせよ、イニャリトゥ作品のファンならば、このような構造が、ほぼそのまま『バードマン』の話法を受け継いでいることに、難なく気づくことになるだろう。くたびれた容姿を持つ中年俳優が、自身の演じるキャラクターとのギャップ(や無意識的な重なり合い)、周囲との不和、私的な不安、更には劇それ自体を取り囲むメディア環境に悩まされながら、なんとか劇を成立させようともがく――。それはまさしく、かつて『バードマン』で、マイケル・キートン演じるリーガン・トムソンが、レイモンド・カーヴァー原作の戯曲を必死で演じながらあるカタストロフィーに行き着く様子を、否応なく想起させるものだ。

こうした構造上の類似には、当然ながらイニャリトゥ自身の演出上の意図が強く作用しているはずで、そのことは、両作のインスピレーション上の源泉になっているに違いないジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』のポスターが、マークソンの楽屋の壁に恭しく貼られていることからも察される。自らが演じる役柄に拒絶反応を示しながらも、悲喜劇を繰り広げながら残酷で美しいカタルシスへと至るあの『オープニング・ナイト』のジーナ・ローランズ(が演じる主人公)の姿が、ここでも極めて自覚的な形で「再演」されようとしているのである。

ところで、『オープニング・ナイト』という稀有な傑作の妙味の一つには、上で述べたようなカタルシスが、ただ映画の中のみに完全に閉じた表象を通じて上演されるのではなく、ジーナ・ローランズの現実の夫でもあるカサヴェテス自身(が演じる脇役俳優)を巻き込んだ劇中劇において成就するという点が挙げられる。しかも、そのような過程を収めるカメラの視点は、いかにも含蓄に富んだ様子で、しばしば観客席から劇を眺める観衆のまなざしに重ね合わせられている。つまりここでは、劇中劇→映画→「現実」という三層構造的なリアリティレベルの相互的な溶け出しが起こってしまっているのだ。

翻って、イニャリトゥの『バードマン』の場合、そうした劇中劇→映画→「現実」という三層構造を溶解させる存在(あるいは記号)としては、何よりもまず、マイケル・キートンという、かつて『バットマン』シリーズで国民的な人気を得たものの、その後はややパッとしないキャリアを重ねてきた「現実」の俳優の肉体があったのだった。さらには、そんな彼が演じる落ち目の俳優リーガン・トムソンが、かつて『バードマン』という(『バットマン』よりもだいぶ低俗そうな)大人気ヒーロー映画の主演を務めた過去を持っているという設定自体も、そうした「現実」との相互浸透を加速させる装置になっていた。

「真っ当」な風刺が成立可能なのかという、反語的な問い

一方、今回の『DIGGER/ディガー』では、「現実」との相互浸透を駆動させる装置は、より念入りに、なおかつ壮大な規模へと拡張されている。まず誰もが気付かされるのが、トム・クルーズという永遠の二枚目俳優が、滑稽なまでに老いさらばえた見た目を施され、これまでに前例のない卑屈なキャラクターを演じているという点だ。これは、かねてより自らの強力なスターイメージに囚われてきたクルーズ自身による、ある種の捨て身の自己批評であると同時に、カーティス・マークソンがディガー・ロックウェルというキャラクターと劇中劇自体に抱いている強烈な違和感を、そのまま戯画的に――「こんな役を演じることにあのトム・クルーズが満足しているわけがない……いや、実際のところどうなのか?」という観客の想像を引き連れながら――表象しているのだと見ることができる。

© 2026 WBEI and Legendary

他方、今作においてより明確なのは、件の劇中劇それ自体が、既に紹介したように明らかに現実――映画内の「現実」と、2026年の私たちを取り巻く「本当」の「現実」の両方――の政治や社会情勢へのあからさまな風刺になっているという点だろう。そのあからさまぶりは、正直に言って、ある種の「答え合わせ」をひたすら投げつけられているかのようで、見ているうちにうんざりしてしまうのだが、おそらくは、そのような嫌ったらしい過剰さ(ユーモアのセンスも実に(たぶんわざと)酷い)こそが、同じように劇中劇と「現実」をバイパスさせる機能を担っているともいえるのだ。

ここには、現下の過剰なまでの高度メディア化社会において、一体全体「真っ当」な風刺などというものが成立可能なのかという反語的な問いと、おのずからその過剰さをけしかける情報経済の仕組み、そして、その仕組みに芯まで絡め取られてしまった私たち自身の顔の動物的な表情が、実に巧妙な形で映し出されているのである(終盤、満を持したように映し出される「客席」の様子を見よ!)。そうした意味において、この『DIGGER/ディガー』は、かねてよりメタ構造を内蔵した映画の系譜が積み重ねてきた、リアリティレベルの相互的な溶け出しというモメントを、文字通り露悪的な形で「掘り進め」ようとした作品なのだと評することもできる。

「本当らしくなさ」を表象する劇伴音楽の効果

こうした「現実」性、もっといえば「外部」性との相互溶解という論点は、本連載の趣旨――映画作品におけるポップソングや劇伴音楽の使用とその機能の検討――に照らした場合にも、興味深い洞察を導き出すだろう。

まず注目すべきは、ロンドン出身の作曲家 / マルチ楽器奏者コスモ・シェルドレイク(Cosmo Sheldrake)が手掛けたスコアの特異さだろう。

彼のスコアは、劇中劇『Fossil Fools』の第一幕となるオープニング部からして、なかなか面白い効果を発揮している。端的に言ってそれは、一般に想像されるスコアとSE等の環境音のちょうど中間を成すような性質を持つもので、一聴しただけでは、どこまでが「作られた音楽」で、どこまでが「(映画内の)現実の音」なのかがわからないような作りとなっている。具体的に言うと、一定の音楽的律動――つまりリズム――を刻んでいるように感じられる音それ自体が、例えば屋外から聴こえてくる鳥の声であったり、水が滴る音、家屋のあちこちが軋む音、暖炉で薪が爆ぜる音などによって構成されているのだ。そのため、観客は、眼前の画面の中で展開されている音が、どれほどまでに演出家や作曲家の「意図」を汲んだ、なおかつ自律的で排他的な機能を持つ「音楽」であるかといったことについての、明確な判断基準を獲得しえない状態へと誘導されるのである。果たして、今耳にしている自然音の連なりは、「劇中音楽」なのか? それとも、「環境音」なのだろうか――? と。

このような特異なスコアが持つ批評的な機能は、シェルドレイクという人物が、かの著名なサウンドスケープアーティスト=バーニー・クラウスの系譜を継ぐ音響生態学的なアプローチを得意とする音楽家であるという事実によって、より一層はっきりとその意義を浮かび上がらせるだろう。つまり、ここで彼は、上に挙げたようなフィールド音を、単にSE的な機能を担う存在としてではなく、ある種の二重の仮構性を内在する映画音楽なるものと相互に侵食し合う存在として構築し直すという手法を採っているのである。これはまさしく、劇中劇と(それによる風刺を通じた)「現実」の相互侵食という本作の大きなテーマとも巧みに重なり合った仕事といえるであろう。さらには、これらのスコアが、「人間以外の生物や自然環境の音を、人間の表現のための材料として収奪してよいのか」という倫理的な問いを発していると仮定してみた場合には、そこに、大規模な環境破壊と激甚な異常気象という、本作で一貫して描かれる具体的なモチーフとの共鳴を聞き取ることも可能になるだろう。

コスモ・シェルドレイク / Lewis.varrilly, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

なお、ここでのシェルドレイクの仕事が優れているのは、そうした、サウンドスケープ思想を発展的に更新するような音作りを行っているという点のみに集約されるわけではない。例えば、劇中劇の随所で聴かれるブレヒト〜ワイル的な劇伴は、劇中劇の美術がいかにも作り物めいた反時代的なキッチュさを湛えているのと同じように、巧みに制御された「本当らしくなさ」を表象していく。私たち観客は、まさにこうした音楽の積み重ねによって、そうしたいかにも「本当らしくない」虚構=劇中劇を観ている私たちの側の世界が、そのような「本当らしくなさ」との反射的な関係によってかろうじて秩序付けがなされ、「現実」として整序されているのではないかという印象を抱かされることになるのである。

数曲だけ流れるポップソングと、「上手いことやりすぎている」ラストシーン

かたや、ポップソングの使用についてはどうだろうか。実のところ、本作の中で使用されるポップソングはかなり数が限られており、目立ったものとしては、劇中劇の舞台となるロックウェル邸のステレオから流れる楽曲――戦前のコーラスグループ=The Ink Spotsのヒット曲“If I Didn’t Care”と、同じくThe Ink Spotsの“I Don’t Want To Set The World On Fire”、そして、エンドロールで流されるポップフォーク歌手メラニーによる“Look What Have They Done to My Song, Ma”のみとなっている。

https://www.youtube.com/watch?v=urvFeUSqRDA
https://www.youtube.com/watch?v=Oy29iCqrN90

だが、その使い方にはやはり相当に神経の行き届いたところがある。例えば、前者のThe Ink Spotsの楽曲たちは、その歌詞内容と劇中劇の内容との微妙な重なり合いを含めて、先に触れたような反時代的なキッチュさと「本当らしくなさ」を巧みに補完しているし、後者の“Look What Have They Done to My Song, Ma”に関しても、「ねえママ、あの人たちが私の歌に何をしたか見てよ」という表題の繰り返しに象徴される通り、自らの表現や人生そのものが、他者の都合によって加工されてしまうこと――つまり、演出された舞台劇やそこでの演技、更には恣意的な情報統制によって現実が侵食され、加工されていくという、この映画が終盤に向かって描き出していく事態と綺麗に符合しているのがわかるだろう。いかにもヒッピー時代らしい牧歌的な――それでいて、どこかミュージックホール的な見世物小屋感 / キャバレー感(※)に彩られた曲調も、それがまさに、先ほど来述べてきたブレヒト的な効果の延長線上に設えられた選曲であるらしいことを告げている。

※メラニーは、若い頃にクルト・ワイルの音楽と出会い、エディット・ピアフに憧れ、ロッテ・レーニャのように歌うことに憧れたと回想している。“Look What Have They Done to My Song, Ma”に滲むキャバレー・ソング〜シャンソン風味は、そうした経歴に根を持つものと思われる。
参考:https://www.irishtimes.com/obituaries/2024/02/03/melanie-safka-obituary-folk-singer-thrown-into-fame-at-woodstock/

https://www.youtube.com/watch?v=Q45QgEcQpI0

さらには、メラニーのこの楽曲が流れるエンドロールでは、本作が繰り返し積み重ねてきたリアリティレベルの相互的な溶け出しという観点から見て、もっとも直接的かつ大胆な「ギミック」が施されることになる。それが何であるかをここで明示するのはさすがに無粋が過ぎると思うので、実際に劇場で体験してほしい(既に観た方には、あの瞬間に流れ出した妙な気まずさを反芻してほしい)。そこには、まさに多くの観客が「そうきたか」と言いたくなるであろうギミックが待ち受けているのだが、しかしながら正直に言って、少なくともあのエンドロールを見ながら私が抱いたのは、そうしたギミックの積み重ねそれ自体がたとえそれがリアリティレベルの撹拌という「立派な」動機によるものだとしても、これではいささか「上手いことやりすぎている」のではあるまいか、という呆れに近い気持ちだった。

風刺と自己批判に感じる嫌なエリート意識

現実の世界が取り返しのつかないほどの気候危機に覆われているというのは間違いなくそうだろう。そしてそれが、無自覚な(私たち観客を含む)大衆と、その大衆の欲望を拠り所に破茶滅茶な開発を続けてきた巨大企業とそれを支えてきた国家的戦略、加えて、マスメディアやソーシャルメディアを覆い尽くす注意経済の異常な伸長による長期的な時間感覚・空間意識の鈍麻に、直接 / 間接の原因を持つことは明らかだろう。このとき、映画や舞台劇という仮構こそが、有効な風刺の発射器となる。そして、その風刺は場合によっては私たちの武器にもなるだろう。だが、その風刺を制御が効かないほどに勢いづかせ、風刺という「大義」のもとで、時にたがの外れた(往々にして抑圧的かつ狂騒的な)娯楽へと転化させているのも、他でもない我々自身である。それもまた疑いようもない真実だ。

だが、ここで今一度冷静になってスタート地点に戻ってみるべきなのではないか。先に述べたような風刺をめぐるジレンマが確固として存在しているのだとして、あるいはまた、現下の気候危機にいまだ多くの人々が強い関心を寄せていないのだとして、それらは、是非とも政治的なプロセスによって解きほぐす努力をすべき対象であることは間違いないにせよ、それ自体が巨大な産業資本によって設えられた映画に描き出された、いかにも利口そうなメタ構造のスペクタクルによって皮肉と訓示を垂れられなければならないようなものなのだろうか。

かなり厳しいことを言えば、ここで行われているのは、ひょっとすると、自らが参加者を招き入れることに加担したポレミックなゲーム空間における「“風刺の成立困難性の提示”という風刺」を通じた、「盾」の体の良い装備=理論武装にしかなっていないのではないか。はっきり言って、この映画の語り口からは、あらゆる問題について、メタ的な構造を置くことを通じてすべてを「分かった」風に配置し直し、「私たちもまた自己批判の対象ではいられない」という弁明をパフォーマンスしながら、「分かっていない」者たちを劣位に置いて識者同士でほくそ笑み合うような、そういう嫌味ったらしいエリート意識を感じ取らないではいられないのだ。

コンプソン大統領(ジョン・グッドマン) / © 2026 WBEI and Legendary

映画には、「答え合わせ」から抜け出る「孔」が必要なのだ

一人の映画の観客として――そう、映画の側がどのようなメタ的な構造を仕掛けてこようとも、ここにおいて私は絶対に一人の観客なのだ――私が言いたいのは、このような溜飲の下げ方、このような自嘲の仕方、このような入れ子構造の濫用(と、もはや言ってしまっていいのではないか)の仕方によって世界を著述することの先に、どのように豊かな気づきが待ち受けているのだろう、ということなのだ。現代社会は息苦しい。間違いない。虚妄に満ちている。そうだ。だが、今それに対して、入念にも入念を重ねた構造を設えながら指差し確認を繰り返すこととは、すでにその問題に対して自覚的な意識とリテラシーを持ち合わせている人たちにとっての「知的」な「答え合わせ」以上のどんな体験が導き出されうるのだろう。それは、根源的な意味で「息苦しさ」や「虚妄」を祓うことに、なんらかの展望を開くものなのか? 問題の所在を言うのはいい。しかし、問題の所在を指摘したうえで、なおもその問題の解き難さという問題を自らの手でもぎ取り、それを一つの「商品」として提示して、制作者と観客の双方で苦虫を噛み潰したような顔をし合うということに、もはやどれほどの意義があるのだろう。

映画がやるべきことは、そういうことではないのではないか。

© 2026 WBEI and Legendary

私は、メタ的な劇中劇を組み込んだ様々な映画の実践の系譜に概ね与するものであるが、思い返してみれば、それは何も、「答え合わせ」や「指差し確認」の技巧やその斬新さに驚嘆したかったからではない。そうではなくて、例えば私が敬愛してやまないカサヴェテスのいびつな傑作『オープニング・ナイト』のように、それがなぜなのかについての論点先取り的な読解(≒考察?)などを断じて寄せ付けず、突如として人と人との調和が訪れ、これぞ人間の真理であると呼べるような瞬間(この言い方を胡散臭いと思うならば、ロベルト・ロッセリーニの名作『イタリア旅行』で、混乱ののちにイングリッド・バーグマンとジョージ・サンダースが再び抱き合うシーンを見てみればよい!)に向けられたリアリティレベルの相互的な溶け出しにこそ、自らの身を埋めたいからなのだ。そうした映画には、「指差し確認」や「答え合わせ」から抜け出る「孔」が必ずや穿たれているものなのだ。

さらに言えば、翻ってそうした映画こそが、本当の意味でこの「息苦しさ」と「虚妄」にまみれた世界を治癒する力を秘めていると信じているのである。思えば、『バードマン』という映画には、少なくともそういう「孔」が(あまりエレガントとは言い難い仕方にせよ)存在していたように思うのだが、この、見た目上、構造上、プロット上、ギミック上は大変に高度な映画である『DIGGER/ディガー』においては、残念ながらそうしたせっかくの「孔」が、そこかしこできれいに塞がれてしまっているように見えるのである(あのようなトム・クルーズの怪演を得ておきながら、もったいないとすらいえるだろう)。いかにも、今という時代の病に、「メタ」視点と完璧主義の過剰な絡み合いを前提的にビルドインしてはばからない私たちの思考法それ自体関わっているのだとすれば、まさにこの映画は、その病態を、必要以上の雄弁さをもって体現してしまっているように思える。私たちはひょっとすると、今こそ、グリフィスの『飲んだくれの改心』とか、キートンの『探偵学入門』の地点へと戻ってみるべきなのかもしれない――反時代的な人間との誹りを受けるのを承知で、私は、そんな風に思ってしまうのである。

『DIGGER/ディガー』

監督:アレハンドロ・G・イニャリトゥ
出演:トム・クルーズ、リズ・アーメッド、ジョン・グッドマン、ザンドラ・ヒュラー、ジェシー・プレモンス、マイケル・スタールバーグ
製作:トム・クルーズ、アレハンドロ・G・イニャリトゥ
配給:東和ピクチャーズ・東宝
© 2026 WBEI and Legendary

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