『バベル』『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』『レヴェナント:蘇えりし者』のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督最新作にして、トム・クルーズが主演を務めた映画『DIGGER/ディガー』が、10月9日(金)から日本でも劇場公開となった。
「ネタバレ禁止」のため事前情報が制限されていたこともあり、全米公開初週の興業は苦戦が報じられており、また、鑑賞者や批評家の評価は、絶賛と酷評に二分しているという。
本記事では、評論家・柴崎祐二が、作中の音楽使用をふまえながら同作を批判的に論じ、いまの社会において映画はどうあればよいのか、という問いを投げかける。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
INDEX
序盤で明らかにされる、ネタバレが禁じられた「ある構造」
映画の歴史を振り返ると、その130年を超える歩みの中に、劇中劇という構造が敷かれた作品が思いの外数多く存在することに気付かされる。ごく初期の例としては、ある田舎者の男性が、スクリーンに映る列車等を現実だと勘違いする短編作品『田舎者とシネマトグラフ』(1901年、監督:ロバート・W・ポール)があるほか、その後も、D・W・グリフィス『飲んだくれの改心』(1909年)、バスター・キートンの『探偵学入門』(1924年)、ジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンの『雨に唄えば』(1952年)、ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』(1963年)、フランソワ・トリュフォー『映画に愛をこめて アメリカの夜』(1973年)、ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』(1977年)、ジャック・リヴェット『彼女たちの舞台』(1989年)、ロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』(1992年)、チャーリー・カウフマン『脳内ニューヨーク』(2008年)など、数多くのエポックメイキングな作品が連なっている。また、こうした劇中劇構造は、もはや巨匠と呼ぶべき評を確立しつつある我が邦の濱口竜介監督がかねてより繰り返してきたものでもあり、今もなお――ひょっとすると今こそ一層強く――才能ある映画作家たちを魅了し続けている形式だといえる。
メキシコ出身のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは、現代において、そうした構造にもっとも自覚的かつクリティカルな仕方でアプローチをしている作家の一人と言えるだろう。中でも、マイケル・キートン演じる落ち目の俳優リーガンが、起死回生のブロードウェイ劇に挑むという劇中劇構造を採用した『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)は、そのワンカット風の超絶技巧的なカメラワークや奔放なプロット運びを含めて、多くの映画ファンに驚きを与えた問題作であった。彼はその後も、(明確な劇中劇構造ではないものの)現実と記憶、夢が相互に侵食する長大な作品『バルド、偽りの記録と一握りの真実』(2022年)に挑むなど、特に近年において、自作の主要なモチーフとしてメタ的な構造を採り入れることに力を注いできた。
今回紹介する『DIGGER/ディガー』は、そんな彼のメタ構造志向を、最も大規模な形で敷衍してみせた作品と言えるだろう。――と書きながらも、見た目上(?)の設定は思いの外シンプルだ。観客はまず、トム・クルーズ演じるエネルギー産業大手ロックウェル社代表の「ディガー」が、自身の傲慢極まりないビジネス戦略によって、地球規模の気候危機を引き起こしてしまうというドタバタ劇につきあわされる。彼の相棒(?)たる(ジョン・グッドマン演じる)アメリカ大統領氏もまた、極度に戯画化された悪漢で、(誰かさんのように)紺・赤・白のパワースーツに身を包み、威圧的な言動を繰り返す。
なんという品のないスラップスティックだろう――。観客がいい加減うんざりし始めた頃、突如、ディガーと大統領の二人を取り囲む窓の外の風景に美術スタッフの頭がぬっと現れ、天の方向から演出家らしき人物の声が聴こえてくる。そう、この悪辣で馬鹿らしいドタバタこそは、この映画の中でリハーサルが行われている風刺舞台劇――つまり劇中劇の一幕だったのだ。
一方、(トム・クルーズが演じる)ディガーを演じる俳優カーティス・マークソンは、その舞台劇『Fossil Fools(化石の愚か者)』のリハーサルの合間に楽屋にこもり、落ち着きなく方々に連絡を取り続けている。娘の搭乗した飛行機が消息不明となっており、そのことが気になって仕方ないのだ。どうやら彼は、妻との関係もうまくいっておらず、プライベートな問題を抱えているようだ。しかも、自らが演じるディガー・ロックウェルのキャラクター造形にも納得がいかないし、そもそも、荒唐無稽で誇張が過ぎる脚本や演出自体にも我慢がならない。ストレスは溜まる一方だ。だが、初日の公演を控える中、彼の不満をよそにリハーサルはどんどん進んでいく。
INDEX
『バードマン』、カサヴェテス『オープニング・ナイト』との相似
具体的に語られていることの明らかな違いはあるにせよ、イニャリトゥ作品のファンならば、このような構造が、ほぼそのまま『バードマン』の話法を受け継いでいることに、難なく気づくことになるだろう。くたびれた容姿を持つ中年俳優が、自身の演じるキャラクターとのギャップ(や無意識的な重なり合い)、周囲との不和、私的な不安、更には劇それ自体を取り囲むメディア環境に悩まされながら、なんとか劇を成立させようともがく――。それはまさしく、かつて『バードマン』で、マイケル・キートン演じるリーガン・トムソンが、レイモンド・カーヴァー原作の戯曲を必死で演じながらあるカタストロフィーに行き着く様子を、否応なく想起させるものだ。
こうした構造上の類似には、当然ながらイニャリトゥ自身の演出上の意図が強く作用しているはずで、そのことは、両作のインスピレーション上の源泉になっているに違いないジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』のポスターが、マークソンの楽屋の壁に恭しく貼られていることからも察される。自らが演じる役柄に拒絶反応を示しながらも、悲喜劇を繰り広げながら残酷で美しいカタルシスへと至るあの『オープニング・ナイト』のジーナ・ローランズ(が演じる主人公)の姿が、ここでも極めて自覚的な形で「再演」されようとしているのである。
ところで、『オープニング・ナイト』という稀有な傑作の妙味の一つには、上で述べたようなカタルシスが、ただ映画の中のみに完全に閉じた表象を通じて上演されるのではなく、ジーナ・ローランズの現実の夫でもあるカサヴェテス自身(が演じる脇役俳優)を巻き込んだ劇中劇において成就するという点が挙げられる。しかも、そのような過程を収めるカメラの視点は、いかにも含蓄に富んだ様子で、しばしば観客席から劇を眺める観衆のまなざしに重ね合わせられている。つまりここでは、劇中劇→映画→「現実」という三層構造的なリアリティレベルの相互的な溶け出しが起こってしまっているのだ。
翻って、イニャリトゥの『バードマン』の場合、そうした劇中劇→映画→「現実」という三層構造を溶解させる存在(あるいは記号)としては、何よりもまず、マイケル・キートンという、かつて『バットマン』シリーズで国民的な人気を得たものの、その後はややパッとしないキャリアを重ねてきた「現実」の俳優の肉体があったのだった。さらには、そんな彼が演じる落ち目の俳優リーガン・トムソンが、かつて『バードマン』という(『バットマン』よりもだいぶ低俗そうな)大人気ヒーロー映画の主演を務めた過去を持っているという設定自体も、そうした「現実」との相互浸透を加速させる装置になっていた。