ヴィム・ヴェンダース監督の最新作『PERFECT DAYS』が12月22日(金)より公開となる。東京を舞台に、清掃員の男性の日常を描いた本作は、主演の役所広司が『カンヌ国際映画祭』で最優秀男優賞を受賞するなど、すでに高い評価を集めている。
ヴェンダース作品における音楽の使われ方に、以前から並々ならぬ思いを持っていたという音楽ディレクター / 評論家の柴崎祐二が、本作の魅力を解説する。連載「その選曲が、映画をつくる」、第9回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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ヴィム・ヴェンダース作品における音楽
ある時期まで、私にとってヴィム・ヴェンダースの映画を観るという行為は、「ヴィム・ヴェンダースが選び、采配した珠玉の音楽を聴く」という体験を併せ持つものとして、大きな意味を持っていた。その初期作品、たとえば『ゴールキーパーの不安』『都会のアリス』『アメリカの友人』などに散りばめられたロックやポップスの名曲の数々は、実際にそこで使用されている楽曲やアーティストへの最良の案内役になってくれたと同時に、映画にとって既存の楽曲がいかに創造的な可能性を持ちうるのかということを、鮮烈に知らしめてくれたのだった。また、ユルゲン・クニーパーやライ・クーダーなどの優れた音楽家が彼の映画へ寄せたスコアに身を浸す体験も、他の監督の作品からはそうそう得がたい深い感動を伴っていた。音楽と映画を等しく愛する人間として、今こうして連載を持っているのも、振り返ってみれば、彼の映画と、その中に響く音楽の輝きに魅入られてしまったことが、大きな理由の一つになっている。
来たるべき新作『PERFECT DAYS』は、そんな私がこのところ少しばかり忘れていたヴェンダースのサウンド派映画監督としての才気を、再び見事に提示してくれるものだ。それどころか、口幅ったいことを言わせてもらえれば、どうにも不円滑な映画を撮り続けていたと言わざるを得ない近年の彼のフィルモグラフィーの中でも、本作は明らかに突出した出来栄えの一本だと思うし、ある視点からはどこか「原点回帰」めいた様相もある。
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東京を舞台に、「日常のミニマリズム」を描く
注目すべきトピックが目白押しの本作だが、その最たるものは、名優・役所広司を主役に迎え、全編が東京で撮影が行われているという点だろう。渋谷区内の公共トイレを斬新なデザインとともに再生させた「THE TOKYO TOILET」プロジェクトを発端とする本作では、実際に各施設が撮影ロケーションとして使用され、そのトイレを巡回する清掃員「平山」を役所が演じているのだ。
映画は、そんな平山の日常のルーチン的な描写が大半を占めている。東京スカイツリーが見下ろす押上の古いアパートに暮らす彼は、毎朝決まった時間に起床し、決まった順序で身支度を整える。いつもと同じ缶コーヒーを飲み終えると、仕事道具を詰め込んだ小さなバンに乗り、いつものルートで出勤する。現場に着けば、昨日も一昨日もそうしたように、丁寧に手際よくトイレを掃除する。昼休みには毎日同じ神社の境内で昼食を摂り、木立から注ぐ光と影を古いフィルムカメラに収める。自宅で育てている何本かの植物は、どうやらこの境内に生えている新芽を譲り受けたもののようだ。若い同僚のおしゃべりにも適当に耳を貸すが、あくまで彼は無口だ。同僚は、そんな彼のことを変人だというが、一方で、妙に頼ってもいる。
仕事を終えると、まっすぐに家へ帰り、すぐに近所の銭湯へと向かう。常連の老人達と親しみに満ちた目配せを交わすが、やはり口数は少ない。夜にはいつもの居酒屋へ出向き、チューハイを飲みながら夕食を楽しむ。就寝前には文庫本を読み、うとうとしてきた頃合いに灯りを消し、床に着く。そしてまた、向かいの家の老婆が箒で道を掃く音とともに、決まった時間に目覚める。それの繰り返し。繰り返し。繰り返し。休日も、とくにこれといって変わったことは起こらない。コインランドリーで洗濯をし、撮りためた木立の写真を現像に出し、古本屋で100円の文庫本を買い、休日だけ顔を出す居酒屋に落ち着く。それだけを、繰り返し。繰り返し。
つまりこれは、例えばジム・ジャームッシュの近作『パターソン』や、あるいはかつてシャンタル・アケルマンが野心的な手法とともに作り上げた『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』などに連なる、ある市井の人間の規則正しい暮らしぶりを映し出す「日常のミニマリズム」ともいうべき映画の系譜に位置する作品といえるだろう。こうした、非・劇的で、沈着かつじっくりと進行する映像のリズムは、かつてヴェンダース自らが金字塔として打ち立てたロードムービーの一連作を彷彿とさせるところがある。また、全体を覆う仄かなストイシズムと、一見孤独な人物へ注がれる冷静でいて温かな観察眼も、1970年代から1990年代にかけて彼が取り組んできた作品に通底する美意識を強く感じさせる。
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主人公のカセットテープから再生される1960〜70年代の楽曲群
先に示した通り、音楽の使い方も非常に効果的で好ましい。毎回選曲には細心の気遣いをもって臨むヴェンダースだが、今回も、共同脚本の高崎卓馬の意見を組み入れながら、注意深く過去の名曲をピックアップしたのだという。
劇中で使用される曲は、以下の通りだ。
The Animals “House of the Rising Sun”、The Velvet Underground “Pale Blue Eyes”、オーティス・レディング “(Sittin’ On) The Dock Of The Bay”、パティ・スミス “Redondo Beach”、ルー・リード “Perfect Day”、The Rolling Stones “(Walkin’ Thru The) Sleepy City”、金延幸子“青い魚”、The Kinks “Sunny Afternoon”、ヴァン・モリソン “Brown Eyed Girl”、ニーナ・シモン “Feeling Good”。
長年のヴェンダースファンなら、このリストを見ただけで、胸踊るものがあるはずだ。ルー・リード(およびThe Velvet Underground)は彼が長年敬愛を捧げてきた特別な存在であり、『パレルモ・シューティング』(2008年に)ではルー・リード自身を本人役で出演までさせている。ヴァン・モリソンも同様で、キャリア初期から深い敬愛を捧げてきた。そしてThe Kinksも、劇中での使用はもちろん、過去には映画自体をまるまる彼らに捧げてしまう(1971年作『都市の夏』)など、監督がもっとも愛するロックバンドの一つである。
また、日本の観客に嬉しい驚きを与えるのが、金延幸子の楽曲の起用だろう。先だって金延氏本人へインタビューする機会がありその経緯を尋ねてみたところ、“青い魚”および同曲を収録したアルバム『み空』をかねてよりヴェンダースならびに高崎氏が愛聴していたことから、今回の使用に至ったのだという。
加えて、これらの楽曲が通常の劇伴としてではなく、あくまで「イン」の音、つまり映画劇中で実際に再生されるという設定の上で使用されているのも重要だ。これらは全て、平山がコレクションしているカセットテープに収められているもので、通勤の途中、決まったルートを通る際にカーステレオから流される。つまり、登場人物の個人的な体験に結びついたものとして、これらの音楽が流されるのだ。こうした、登場人物たちのプライベート空間に直接触れるような親密性を喚起させる音楽使用の手法は、現代ではごく当たり前のものとなっているが、元をたどれば、他でもないヴェンダース自身が1970年代の初期作品を通じて実践し、洗練させてきた手法でもある。スクリーン上に映し出される親密圏と、観客一人ひとりが抱くそれらの楽曲にまつわるイメージ / 記憶が重なり合っていくことによって、結果として、映画のナラティブを倍加的に促していく。現在の視点からすると、ある意味では「お手本」的とすらいえるこうした手法を、自らの手で円熟の域に達しめたという点にも、本作の「原点回帰」ぶりが伺えるようだ。
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「高踏的」ではある。が、しかし……
音楽に限らず、様々な小説作品(ウィリアム・フォークナー『野生の棕櫚』、幸田文『木』、パトリシア・ハイスミス『11の物語』)や古めかしい日本製フィルムカメラなど、本作に登場する様々な「カルチャー」の断片は、いかにも、というか、ひょっとすると少し嫌味に感じられるほどに「趣味が良い」ものばかりだ。
実際、そうした面から本作を批判する声も少なくないようだ。平山のフィクショナルなストイシズムや、いかにも教養に溢れた文化的な「孤高の人」としての主人公の姿にフォーカスし賛美するあまり、それらの描写が単なる文化的な符牒・記号として機能してしまっており、しかも制作者側がそれに自足しているのではないか、という指摘がなされるのは、確かに道理が通っているようにも感じる。もっといえば、この映画がある種の知的階級による高踏趣味から逃れ出ておらず、多くのブルーカラー労働者がおかれている現実、あるいは背後に潜む社会的 / 経済的な問題に直接的に目を向けようとしていないという批判を退けるのは、なかなか難しいといえそうだ(*)。
*ことさらに擁護するわけではないが、本作の設定に関わる話として次のことも述べておく。「文化資本に恵まれた物静かなエッセンシャルワーカー」という平山のキャラクター造形は、たしかにある視点からは、いかにもフィクショナルで無垢なプロフェッショナル信仰を補強する都合の良いものに感じられるかもしれない。しかし、映画が進むに連れ、どうやら彼はあるのっぴきならない事情によって自ら選んで現在の生活を送っていること、更に、かつてはそれなりに社会的地位の高い人物であったことがほのめかされる。
加えて、仮に彼の過去にのっぴきならない由縁がなかったとしても、そういう人物が「現実」に存在している可能性を私達読み手が勝手に閉ざしてしまい、「リアルではない」と指弾するのだとしたら、それもまたずいぶん出過ぎた行為だろう。
そうした批判は十分に有り得るし、少なからず与すべき余地もあると考える。しかし一方で、それが映画の価値を即座かつ全面的に貶めてしまうとも思わないし、有り体な言い方をすれば、そもそもこれまで歴史的な評価を獲得してきた過去のヴェンダース作品に同様の傾向が皆無だったかといえば、やはりそんなことはないだろう。何がいいたいかといえば、ヴェンダース作品の美質は、しばしばそうした「瑕疵」を補って余りあったはずだし、それは本作においても同様のはずだ、ということだ。
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「環世界」とその横断に、賦活される「生のありよう」
いかにもウェルメイドで静謐な、品の良いムードが支配する『PERFECT DAYS』だが、そうした外見上のスムースさに反し、提示されるメッセージはかなり骨太、というか、実に正道めいたものだ(*)。いくつかのシーンやセリフで示唆される通り、この映画はずばり、メタファー化された数多くの「環世界」の存在と、その中で自覚的に生きることの輝きや喜び、あるいは逆に、それらが互いに混じり合う瞬間の輝きや喜び、そしてまた、そうした瞬間を通じて賦活される生のありようを祝福しているのだ。
*実際のところ、一部のシネフィルが妙に忌避しがちな概念である「メッセージ」が堂々と発されている、というだけでいかにも勇気あることではないか。
「環世界」とは、1900年代はじめ、ドイツの生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した概念だ。彼は、それぞれの種は客観的に把握される唯一かつ普遍的な世界を生きているのではなく、その知覚を通じて、各種に特有の主観的世界=「環世界」を生きていると考えた。近年、日本の哲学者・國分功一郎が、ベストセラーとなった著書『暇と退屈の倫理学』の中でこの「環世界」を重要な概念として取り上げ、注目を集めた。
本作にこの「環世界」の概念をより一般化し噛み砕いた上で当てはめてみれば、本作は、それぞれの環世界に生きる社会の様々な人々の「交わらなさ」と、しかし同時に当人がどう構えようが結局は社会的な存在であるがゆえにときに「交わってしまう」人々の生のありようを、静かに描き出しているのだと理解できるだろう。人間は、それぞれの環世界を完全に俯瞰することはできないが、ときに環世界同士を移動し、つなぎ、滲むように交わらせてしまうこともある(できる)のだ。それはしばしば私達にとって快くはない体験となるだろうし、國分の言葉を借りれば、人生の「退屈」に倦むことにもつながる。しかし、私が思うに、そうした人間のアンビバレントなありようは、人間が人間である所以、あるいは社会的な存在である所以の、もっとも深い部分に関わるものでもあるはずだ。人は、変わらない日常の自分だけのルーチン(「環世界」)と、そこにやってくる裂け目のような出来事(「環世界の横断」とでもいうべきか)に触れた時、自らの来し方と行く末を彩るにじみの存在に、はたと気づくことになるのだ。
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「今度は今度、今は今」
『PERFECT DAYS』は、この、あまりに当然のようでいて、それゆえに手に触れ難く、掬ったそばから宙に淡く散じてしまうような淡い気づきを、光と影と音の織りなし=映画として捉えようとする。自らの過去の記憶を突然に投げかけてくる存在=平山の姪ニコ(*)の来訪を受け、二人は次のような会話を交わす。数ある美しいシーンの中でも、特筆すべき詩情を醸す場面だ。
(二人並んで自転車を漕ぎながら)
平山「この世界は、本当は沢山の世界がある。
つながっているように見えても、つながっていない世界がある。
僕のいる世界は、ニコのママのいる世界と違う」
ニコ「私は? 私はどっちの世界にいるの?」
平山(自転車を停める)「……」
ニコ(自転車を降り、眼の前の隅田川の流れを眺めながら)「ここ、ずっと行ったら海?」
平山「うん、海だ」
ニコ「行く?」
平山「……今度ね」
ニコ「今度っていつ?」
平山(ニコを見つめながら)「今度は今度、今は今」
ニコ(反芻するように)「……今度は今度、今は今」
二人(再び自転車に乗り、ジグザグに並走しながら)「今度は今度、今は今」
*ヴェンダースおよびルー・リードのファンならば、この名付けに明確なオマージュを感じざるをえないだろう。
平山は、変わらないルーチンの中で日々を過ごすが、同時にそれがゆえに、変わりゆくものを誰よりも敏感に感じ取ることができる。ただ不変の、閉じた環世界の継続を望んでいるようにみえて、実はそういう彼自身が、過去の記憶と結びついた心のどこかで、小さな変化を待望し、また、それをもって「新しい変わらない日常」へと漕ぎ出すことへ想いを致しているのかもしれない。もしかすると、彼が愛でる音楽や本も、変わらない日常の安定のためというよりもむしろ、裏腹に心揺れる瞬間を訪れさせるために、彼を取り囲んでいるのだろうか。