文化関係者にとっても試練の季節となったコロナ禍を経た現在。他方、それ以前から山積みとなっていた高齢化や福祉の不足、地域コミュニティの衰退などの社会的課題は、さらにその切実さ、複雑さを深めている。こうした時代に求められる、文化の姿とは何か? 今回はそんな問いを、地域のなかでしなやかに活動する2人のプレイヤーが話し合った。
1人目は、日本各地で盆踊りを現代的にアレンジした祝祭の場をオーガナイズし、2023年には地元の東京・墨田でイベント『すみゆめ踊行列』も成功に導いたスタディストの岸野雄一。そしてもう1人は、長崎県長崎市で「長崎市北公民館」「長崎市チトセピアホール」「長崎市市民活動センター ランタナ」という3つの公共施設の指定管理者を務め、行政的には異分野とされるこれらの施設の連携を模索してきた出口亮太。2人は過去にも、公共施設の新しい使い方や、公共空間と文化の関係について対談を重ねてきた旧知の関係だ。
硬直化した社会に風穴を開ける大胆な実践の楽しさから、俯瞰した立場から異なる分野をマッチングする仕組みの必要性、文化が「文化」の領域を越え出ることの可能性まで。経験豊富な2人の対話のなかに、これからの地域と公共、そして文化の課題を探る。
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コロナ禍を経て見つめ直された、「徒歩圏内」「ローカル」の重要性
—岸野さんと出口さんにはこれまで、2017年と2018年の2回にわたりCINRA.NETでお話を伺ってきました。そこでは、どこの地域にもある公共ホールでカッティングエッジなカルチャーを紹介する、出口さんが館長を務める「長崎市チトセピアホール」の斬新な取り組みや、日本の各地で画期的な盆踊りイベントを開催し、地域の実情を見てきた岸野さんの視点を通して、公共と文化、もしくは都市と地方の問題などを考えてきました。
最後の対話から6年後の現在、お2人が当時から語っていた、文化を通じた公共やコミュニティの再考の重要性はさらに高まっているように思えます。一方、時代が新しい局面を迎えているとも感じ、今日は久しぶりにお2人にいまの実感を聞ければと思います。
まずはこの間にあった大きな出来事として、コロナ禍がありますね。お2人とも人が集まる場を作る活動をされていますが、この出来事のなかでどんなことを考えましたか?
岸野:コロナ渦になって自分が最初にしたことって、自転車を買うことだったんです。僕はこれまで国内や海外のいろんな地域を回って、その場所で文化がどのように生成し、どんな状態にあるのかを見てきたのですが、それが制限されたコロナ以降、徒歩や自転車の圏内という身近なエリアのことに活動をフォーカスする良い機会だ、とポジティブに考えるようにしたんです。

1963年、東京都生まれ。東京藝術大学大学院映像研究科、京都精華大学メディア表現学部、美学校等で教鞭をとる。「ヒゲの未亡人」「ワッツタワーズ」などの音楽ユニットをはじめとした多岐に渡る活動を包括する名称としてスタディスト(勉強家)を名乗る。銭湯やコンビニ、盆踊り会場でDJイベントを行うなど常に革新的な場を創出している。2015年、『正しい数の数え方』で第19回文化庁メディア芸術際エンターテインメント部門の大賞を受賞。関東大震災から100年、著しい被災から復興した隅田公園を舞台に、鎮魂の意を込めた踊りを捧げる『すみゆめ踊行列』プロデューサー。
岸野:コロナ渦以前からの活動で一番影響を受け、参考にしていたのが、過去にヨーロッパをDJや公演などで回った際に、自分たちを招聘してくれたスクウォッティング(放棄された土地や建物を不法占拠すること。近年は空き家の再利用プロジェクトなどにも使われる)を活動拠点とするスクウォッターたちの活動でした。
彼らと情報交換をしたり交流を持つなかで、当事者に話を聞くと、もともとヒッピーのコミューンのようなものだったスクウォッティングした建物にも、長い時間と失敗を経て培われた解決の方法やロジックがある。それを知るのが面白いんですね。とくに、本来は違法な活動だったものが、現在では行政からお金をもらって、地域の子どもの美術教室や音楽教室をやっていたり、年配の方も訪れる飲食店をしていたり、日本でいう子ども食堂のようなものから、地域の大きな音楽フェスティバルを開催していたりする事例があるんです。一見、イリーガルでアナーキーな行為に見えるのですが、いかに市民権を得て、地域に根ざした活動を行っているか、その方法論に強く影響を受けました。

—完全に公認されたものもあるんですね。
岸野:そうなんです。なぜそうなったのか、どんな失敗があったのか、どのような方法論を用いたのか、という経緯に学びがある。そして、そうした知見を自分の住むエリアでも実践するというのが、コロナ禍にしていたことです。
そのひとつとして、具体的には、「所定の手続きを踏む」ということがありますね。行政からの助成を受け、その枠組みのなかで活動することは、従来のリベラル的な価値観からは妥協に見えるかもしれない。私は大学で社会実証実験の講義を持っているのですが、学生に「道路使用許可の手続き」について説明をしたことがありました。そのときに、警察官に囲まれてヘイトスピーチの行進を行っている団体と、歩道から抗議しているプロテスターの写真を見せたときに、学生たちは、ヘイトスピーチの行進の方が正しく見える、と言うんですね。許可なく歩道を遮っている人たちの方が悪く見える、と。これは主張の内容は問わずに、構図としてそう見える、ということらしいんです。
このように所定の手続きを避けている限り、リベラルの活動はネトウヨの活動よりも相容れないものに見えてしまうということです。これはやり方を変えないといけないのではないか。それこそ石原慎太郎の初期の小説でも、ダンスパーティーを開催するのに警察署に警備を依頼しに行く描写があったりして、そうやって彼らは正当性を担保していったのだと思うのです。そういった正当性に抗っていくにはどうすれば良いのか? それは権力に馴致されるというよりも、目的に対しての方法の適正化を考えるべきだと思うのです。こうした考えから、例えば2023年に地元・墨田の隅田公園で開催した『すみゆめ踊行列』などでも、行政と交渉を重ねてイベントを作るということを意識していました。
—なるほど。『すみゆめ踊行列』の背景にはコロナ禍のそんな思考があったんですね。一方の出口さんは施設の運営者ですが、コロナ禍をどう過ごされていましたか?
出口:前回までの対談にもあった通り、自分はこれまでチトセピアホールを舞台に、長崎市でなかなか触れる機会のない尖ったカルチャーを紹介することに力を入れていて、そのことで地方にも文化の多様性を担保するということを謳ってきました。でも、コロナ禍で県境の移動ができなくなり、そういう自分の求めていたものができなくなってしまった。

長崎市北公民館・チトセピアホール 館長/長崎市市民活動センター 統括/活水女子大学非常勤講師(舞台芸術論)1979年長崎市生まれ。東京学芸大学で博物館学を学んだ後に長崎歴史文化博物館の研究員を経て2015年に長崎市チトセピアホールの館長に就任。先鋭的な企画と助成金に頼らない運営スタイルが、地方における中小規模の公共ホールの新しいかたちとして注目を集める。2020年からは北公民館、2023年からは市民活動センターでも企画運営を行う傍ら、地域の公共施設や市民団体との連携事業を実施しつつ、現場での知見をもとにした施設運営についての講義を全国で行う。
出口:そのとき、ふと我に返って考えてみると、これまでの自分の活動は、結局は地方に「リトル東京」を作りたかっただけなんじゃないかという反省がすごくあったんですね。東京から最先端の何かを持ってきて、ここに小さな東京を再現したかっただけなのでは、と。
ただ、そうしたなか、2020年から「長崎市北公民館」の運営も兼任することになりまして。そうすると公民館というのは、本当に「半径何キロ」っていう世界なわけですよね。
—本当に地域のための施設というか。
出口:そう。岸野さんの話にも通じますが、「外から人を呼ぶ」ではなく、ローカルで何ができるかを考えていました。そのとき公民館という場所があったのはとても良かった。
考えてみると、公民館には大方のものが揃っています。例えば、長崎に新しい文化施設を作るにあたり取られたアンケートがあって、そこには「Wi-Fiがほしい」「展示スペースがほしい」「子育て支援の機能がほしい」「いざとなったら避難所になってほしい」などという要望が書かれている。これって、じつはすでに公民館がやっていることなんです。
だから、僕自身も2020年までは意識していなかったけど、市民が求めるものの多くはすでに公民館にあり、その打ち出し方がうまくいってなかっただけなんじゃないか、と。それに対してどんな新しい取り組みができるんだろうということが、コロナ禍に考えていたことですね。

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人をいかに巻き込むか。公民館や公園での実践
—お2人とも、コロナ禍に身近な環境への視線が変わった点が共通していますね。
岸野:そうですね。あと、これは多くの人が意識したと思うのですが、実際にフィジカルに多くの人が集まるというのは、何にせよ尊いなと気づきましたよね。現場ならではの化学反応が起こる。それは当たり前のことすぎて、一度失ってみないとわからなかった。これは、コロナ渦を経て良かったことのひとつです。ネット上でああだこうだ言い合っていても、何も進まないのが、実際に対面するとおおよその落とし所が見えてくる。これはネット上では時間的なデッドラインが無制限で、いくらでも主張を続けられるのに対して、フィジカルでは「あと1時間で帰るので、そろそろ落とし所を見つけるか」といった意識が働くからなのではないか、と思います。
出口:その意味で言うと、さきほどのホールのリトル東京的な使い方も、当然あっていいわけですよね。やっぱりホールには刺激的なもの、心が湧き立つもの、最先端のものを観にくるという側面がある。
思い出深かったのが、熊本の八代のキャバレーで坂本慎太郎がライブをやったときのことで。FRUEの人たちが主催で、会場整理のお手伝いで入ったんですけど、地方でもこんなにキレッキレな表現が観れて、それに地元の人が喜んでるって光景を目にしたときに、やっぱりこういうのが地域に必要だなと思いました。やっている側としても楽しいですしね。そして、それが「ハレとケ」のハレの場だとしたら、いっぽうのケの方にもより意識が向かうようになってきた。
岸野:わかります。僕もケの充実に力を入れてきました。イベントを開催するのって、言うなれば打ち上げ花火なんですが、それよりも日常的な風景を大事にしたかった。具体的には、公園の居心地というものを大事にしようと思ったんです。屋外の広い公園なら、コロナ渦でも人的な密集度は大丈夫だろうという思いもあり、「イベント」ではなく、個人的に公園にDJセットを持っていって、音を鳴らしていました。もちろん占有許可を申請してですが。

—それはすごいですね(笑)。
岸野:最初は、ただ机とターンテーブル、ミキサー、スピーカーを持っていって、プレイしていたんです。でも、これだと人は近寄りがたい。ただの趣味の人ですよ。そこで「閲覧自由」という看板を立てて、スケルトンのテントのようなものを周りに立ててやっていたら、すごくウェルカム感が出たんですね。その結果、声をかけてくれる人や、またやってほしいから機材を運ぶのを手伝うとまで言ってくれる人も現れました。
この経験は、「パブリック」ということについて考えるきっかけになりました。公共の空間でやっていたとしても、当人からは意識に上らない、「見えない敷居」は意外と強くあるんだな、と。そこに何も仕掛けがなければ、人は「変な人がいる」とか「自分と関係ないサークルだ」と感じてしまう。そのハードルを無くしていって、誰もが参加できますよ、みなさん見てください、聞いてくださいというふうにするにはどんな仕掛けが必要か。それを学ぶ時間でもあったんです。
さらに、そこから発想すると、いわゆる地域振興で効果を生み出すためには、「いかにコミュニティを作らないか」が大事ではないか、とも思いました。内側があるということは外側があるということなので、「内側があるように見えないようにする工夫」が必要。スケルトンのテントもそうですね。幕を張らない、ロープで仕切らないなどがポイントだと思います。


—半開きの状態というか、緩く閉じてはいるけど、完全には分かれてはいない。
岸野:そう。内と外の分け隔てがないことをスケルトンで示して見せていて。そんな風に身近な地域での実践を通して、これまで見えてなかったことがだいぶ見えるようになってきた。

出口:僕も人をいかに巻き込むかということの実験をしてきました。というのも、公民館の抱える問題には、高齢化と利用者の固定化という2つがあると言われているからです。
そこで、自分と同じ40代半ばくらいの世代が来られる公民館を作ろうと、まずは普段から自分が通っているご飯屋さんやお花屋さんに公民館講座の講師をお願いしました。ちょうど初冬だったので、講座のラインナップには、お花屋さんとのモダンしめ縄づくりや、お蕎麦屋さんとの年越し蕎麦づくり、独立系書店の店長さんとの冬をテーマにしたブックトーク、長崎県金融広報アドバイザーによる子ども向けの「お年玉から考えるお金のはなし」トーク、地元のアーティストによるホールの照明機材を使った光のワークショップなど、幅広い内容を揃えました。そしてそれを、運営している3つの施設共通の広報誌『Drie』に「北公民館の冬じたく」というオムニバス講座として掲載。近隣の小学校にわっと撒いたんです。

出口:いくらネット時代と言えど、子どもが学校でもらったチラシってリーチ率100%で親に届くんですよね。それで、子育て中の40代の人たちがたくさん来てくれるようになって。来てみたら、さっきの話で、意外と公民館にはいろいろ揃っていると気づくわけです。
—公民館を知ってもらう第一歩になったんですね。長崎市北公民館は、そうした一連の親しみやすい講座の開催や、その広報誌やインターネットを利用した広報活動などが評価されて、2022年に文部科学省の第75回優良公民館表彰の「優秀館」にも選ばれました。
出口:嬉しかったですね。本当にできることがたくさんあると思っていて。
あと、その講座について思っていたのは、利用者だけでなく講師の人も新しい世代にしていきたいということでした。公民館の高齢化と固定化という問題は、裏を返せば、余暇の時間が増え、公民館が活況を呈した高度経済成長期の頃のコミュニティがいまも続いているということです。その頃の先生と教え子が一緒に歳を重ねている。それはそれでもちろん素晴らしいんだけど、次の世代との関係も作らないといけないと考えているんです。
