日本で最もその名を知られ、私生活の細部に至るまでメディアに消費されてきた歌舞伎俳優がいる。その男十一代目市川海老蔵は、2022年、父である先代の没後約9年を経て大名跡「十三代目市川團十郎」を襲名した。
さまざまな題材を駆け抜けてきた映画界の多作家・三池崇史は、自身初となるドキュメンタリーの題材に、なぜこの「すでに知られている男」を選んだのか。
親から子へ名跡が受け継がれる極めて閉鎖的な制度のなかで、ひとりの人間が300年の歴史を持つ名を引き受けるとき、そこにいかなる軋轢が生じるのだろうか。映画ジャーナリスト・小城大知が迫る。
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『国宝』のヒットも、いまだ多くの人にとって縁遠い歌舞伎という存在
なぜ、三池崇史が歌舞伎のドキュメンタリーを撮るのか。
ヤクザ映画からアニメ、女児向け特撮まで、ジャンルを問わず100本を超える作品を送り出してきた、日本映画界屈指の多作家・三池崇史。その彼が初めて手掛けたドキュメンタリーの題材が歌舞伎、しかも市川團十郎という大名跡の襲名を追ったものであると聞けば、意外の念を抱く向きも少なくないだろう。三池の初ドキュメンタリー『襲名』は、2022年11月に行われた十三代目市川團十郎白猿と八代目市川新之助の親子同時襲名披露に至るまで、2019年の記者会見から約3年間にわたって記録した作品だ。
歌舞伎とは、歌(音楽)・舞(舞踊)・伎(演技)の三要素が織りなす総合芸術であり、日本を代表する伝統芸能である。

戦国時代(1500年代後半〜1600年代初頭)の終わり、常識外れな格好で奇抜な行動をとる若者たちが現れ「かぶき者」と呼ばれた。それを真似て京都・鴨川の河原で出雲阿国という女性が踊り出し、その妖艶な踊りが「かぶき踊り」と称されるようになったことが、「歌舞伎」の起源とされる。
歌舞伎を映画の題材とする試みは古くから今日まで存在しており、松竹の『シネマ歌舞伎』シリーズに至っては、舞台上演をそのまま記録し劇場公開する取り組みを継続してきた。そして2025年には、『国宝』(2025年)が歌舞伎俳優を正面から描き、半年に及ぶロングラン興行の末、日本の実写映画歴代興行収入第1位を記録したことも記憶に新しい。
しかし、これほど日本を代表する伝統芸能でありながら、歌舞伎は多くの日本人にとって、いまだ縁遠い存在。名跡を親から子へ、師から弟子へと受け継ぐ制度、そして家系によって成り立つ世界のあり方は、部外者にとって理解を難しくしている。この閉鎖性は、決して過去の遺物ではない。今でも、歌舞伎俳優をめぐる様々な報道がなされるたびに、絢爛豪華な舞台とその裏にある俳優たちの私生活との落差から、その閉鎖性を改めて感じさせられるのだ。
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「お腹いっぱい」の私生活を排し、襲名と舞台上の摩擦のみを映す

ここで、三池崇史という監督について改めて振り返っておこう。1960年、大阪府に生まれた彼は、横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)で学んだ後、テレビドラマの助監督となる。井上梅次、野田幸男、恩地日出夫、今村昌平といった監督たちの現場で演出を務め、ビデオ作品『突風!ミニパト隊/アイキャッチ・ジャンクション』(1991年)で初監督。そして、『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(1995年)で劇場映画監督としてもデビューを果たした。
以降のキャリアでは、ジャンルを問わない旺盛な創作意欲を発揮した。2007年には『オーディション』(1999年)がTIME誌の『ホラー映画ベスト25』に選出されるなど、その映像世界は海外からも高く評価され、国際映画祭での受賞歴も多数に及ぶ。米国アカデミー会員でもある彼は、2024年にハリウッド大手エージェントのCAAとマネージメント契約を結んだ。最新作『バッド・ルーテナント:トウキョウ』(2026年)はNEONによる北米配給が決定しており、チャーリーXCX主演の新作ホラー『UNTITLED KYOTO MOVIE(仮)』の製作も進行中だという。
そんな三池と十三代目市川團十郎白猿(襲名以前は市川海老蔵)の縁は深い。両者が映画で顔を合わせるのは、『一命』(2011年)、『喰女-クイメ-』(2014年)、『無限の住人』(2017年)に続き、本作が4本目である。加えて彼自身、『六本木歌舞伎』で第一弾から第三弾までの演出を担当した経験を持つ。つまり彼は、歌舞伎という世界の内側に、俳優としての團十郎との関係を超えて、既に深く足を踏み入れていた人物なのである。
三池は、本作の報道向け公式資料にこう綴っている。
十一代目市川海老蔵。良い面も悪い面も、舞台裏(私生活含め)はもう充分に世の中に発信してきた。お腹いっぱいです。確かにそのおかげで、市川海⽼蔵を知らぬ者はいない。しかし、その芝居を劇場で観た者は少ない。
三池崇史 ディレクターズノート抜粋

この率直な言葉通り、彼が描いたのは、既に知られ尽くした「私生活」ではない。彼は閉ざされた伝統の世界の中心にいる人物でありながら、その私生活はあまりにも公に晒されすぎている。「團十郎」という受け継がれた名を生きることと、一個人としての市川海老蔵を生きることの間にある、避けがたい摩擦。その「知名度の高さに反して実際に劇場で観た者は少ない、芝居の姿」を写し出そうとしたのだ。
『襲名』が記録する市川團十郎は、1977年、十二代目市川團十郎の長男として東京に生まれた。1985年、七代目市川新之助を名乗り初舞台を踏み、NHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』(2003年)で主演を務めるなど、早くから頭角を現す。翌2004年、十一代目市川海老蔵を襲名し、以降は歌舞伎の舞台にとどまらず、映画にも数多く出演し、「海老蔵」の名を歌舞伎の枠を超えて広く知らしめた。
しかし、その華々しいキャリアの陰で、彼の人生には困難も少なくなかった。2017年には妻・小林麻央を亡くし、2人の子どもを育てながら自らの芸を磨き続けるという日々を送ることになる。
團十郎という名跡は、江戸歌舞伎の中心として歌舞伎の歴史そのものを築いてきた、300年以上続く大名跡である。市川團十郎家の芸として選ばれた十八番の演目「歌舞伎十八番」は、天保3年(1832年)、七代目市川團十郎によって定められたもので、映画内でも披露される『勧進帳』などが含まれる。

海老蔵から團十郎への襲名が発表されたのは2019年1月14日。その道のりは決して平坦ではなかった。
2020年2月、襲名興行における演目発表会見が開かれたわずか数週間後、新型コロナウイルスの感染拡大により公演の延期が発表され、実に2年半にわたる中断を経て、2022年5月31日、ようやく公演開催が発表。同年10月31日、歌舞伎座での「顔寄せ手打式」を経て、市川海老蔵は十三代目市川團十郎白猿を襲名する。市川團十郎という大名跡が、9年ぶりに復活したのだ。
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歴代の『勧進帳』が突きつける、「継承」と「個人」の間で揺れる緊張感
映画の前半は、女優・杏のナレーションに導かれながら、2019年の発表会見から2022年の襲名披露に至るまでの道のりを丁寧にたどっていく。まず紹介されるのが、市川宗家に伝わる「歌舞伎十八番」。つまり、團十郎を軸に受け継がれてきた十八番の演目である。そこから物語は、團十郎という名にまつわる歴史、歌舞伎の世界に流れる因果応報の感覚、そして「成田屋」という屋号の由来となった成田山での荒行へと、静かに分け入っていく。
同時に、海老蔵が襲名に向けて重ねてきた努力の数々、具体的には『義経千本桜』の斬新な解釈、早替わりを支える舞台裏の仕掛け、彼の闘病中に代役を務めた子どもたち、そして襲名披露公演での父子共演の場面も丁寧に描かれる。

歌舞伎に馴染みのない観客にとって、この前半部分は、「團十郎」という名の重みと、そこに至るまでに積み上げられてきたものを理解するための、行き届いた案内役を果たしている。
後半は、襲名披露公演そのものの記録に軸足を移す。中心となるのは2つの演目である。1つは、海老蔵自身が子役時代の初舞台で演じ、今は息子・八代目市川新之助が受け継いだ『外郎売』。もう1つは、海老蔵が團十郎として初めて演じる『勧進帳』だ。
映画はこの『勧進帳』を、十三代目の舞台だけでなく、十一代目・十二代目という先代たちの記録映像を編集で重ね合わせ、観る者に世代を超えた比較を促す。父から子へ、そのまた子へと受け継がれてきた演目を通じて、十三代目團十郎が、先人たちの遺産を敬いながらも自らの芸を切り開こうとしていることが、静かに浮かび上がってくる。
この『勧進帳』の扱い方にこそ、継承と個の間で揺れる緊張感という、この映画の核心的なテーマが最も美しく凝縮されている。
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村上隆の祝幕とベネチアでの快挙。現代の芸術として生まれ直す歌舞伎

歌舞伎に馴染みのない世界の観客にとっても、この映画が伝えようとしているものは、決して小さくない。十三代目市川團十郎白猿の襲名という出来事を軸に据えながら、映画はその先に、歌舞伎という芸術そのものへの入り口を静かに用意している。
なかでも興味深いのは、この映画が現代美術との接点を、はっきりと記録している点だ。襲名披露公演の祝幕を手がけたのは、世界的アーティスト・村上隆。縦7メートル、横32メートルという巨大な祝幕は、歌舞伎十八番の演目をモチーフに彼が長年築いてきた「スーパーフラット」の視覚言語によって描き出されているのだ。

日本の伝統絵画と現代美術、そして漫画の視覚論を横断してきた村上の仕事が、歌舞伎座という最も伝統的な場に持ち込まれる、このプロジェクトの制作過程を、映画はきちんと記録している。歌舞伎が、単に過去から受け継がれるだけの静的な遺産ではなく、今この瞬間の文化・芸術とも確かに接続していることを、静かに物語っている。
伝統というものは、決して立ち止まらない。「團十郎」という名は、十一代目から十二代目、そして十三代目へと、その都度、新しい演者の身体を通して生まれ直してきた。市川團十郎白猿自身も映画公開にあたって、長きにわたり代々受け継がれてきた團十郎の名が、映像作品として後世に残されることへの感謝と、日本の伝統文化である歌舞伎が広く海外の人々に知られることへの期待を語っている。
⻑きにわたり代々受け継がれてきた團⼗郎の名が、映像作品として後世に残されますことを、 誠にありがたく、 光栄に存じます。三池監督の⼿により、どのようなかたちで映像化されるのか、今から⼤きな期待を抱いております。
また、本作が海外より発信されることにも、深い意義を感じております。現在、映画 『国宝』が世界的に注⽬を集めておりますように、⽇本の伝統⽂化である歌舞伎が広く海外の皆さまに知られ、 エンターテインメントとしても親しまれておりますことを、歌舞伎俳優の⼀⼈として⼤変嬉しく存じます。
⼀⽅で、 このたびの團⼗郎襲名は、現実の世界におけるものであり、私⾃⾝にとりましては、今なお極めて重責を伴うものでございます。そのような側⾯も含め、 皆さまにどう受け⽌めていただけるのか、 ⾝の引き締まる思いとともに、 拝⾒できる⽇を⼼より楽しみにしております。十三代目市川團十郎白猿 報道向け公式資料でのコメントより
そして実際、本作は『第83回べネチア国際映画祭』の「アウト・オブ・コンペティション部門」に正式出品された。三池と『ベネチア国際映画祭』との縁は深く、『IZO』(2004年)や『十三人の刺客』(2010年)など、これまでも数々の作品が同映画祭で上映されてきたが、2010年以来実に16年ぶりの正式出品となる。
十三代目市川團十郎白猿にとっても、主演作『利休をたずねよ』(2013年)で受賞した『第37回モントリオール世界映画祭』以来、久々となる国際映画祭への出品。歌舞伎という日本固有の伝統芸能、しかもそれを映し出したドキュメンタリーが、これほどまでに国際的な文脈に置かれることは、稀有な事例と言えるだろう。
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ドキュメンタリーの枠を超えて浮かび上がる、名跡を生きる家族の「今」

歌舞伎の解説として、また初心者への入門編として、本作は間違いなく優れた仕事を成し遂げている。しかし率直に言えば、観終えて残るのは、ある種の物足りなさである。歌舞伎という芸術そのものへの新しい発見は乏しい。
そのことを考えると、この映画には根本的な問いがつきまとう。つまり、「なぜ三池崇史が、この映画の監督であるのか」という問いである。彼にとって初めてのドキュメンタリーであり、静謐な伝統芸能の世界と、その真正な儀式にカメラを向けるという行為自体には、大きな可能性が眠っていたはずだ。しかし実際には、映画を構築する主要な映像が「許可された素材」のような状態であり、彼自身がこの世界に飛び込んで得られたはずの独自の緊張感は、驚くほど希薄である。
もちろん、三池らしさが完全に消えているわけではない。成田山での荒行の場面には、彼の作品でおなじみの、あの独特な視線が息づいている。見る者を落ち着かない気持ちにさせる、あの視線である。
舞台場面が、俳優の顔にあえて寄らず、舞台全体を捉える敬意ある距離感で撮られている点は好ましい。これは『国宝』のタイトな顔のクローズアップとは明らかに一線を画す、意図的な選択であろう。『勧進帳』を歴代の團十郎と重ねて見せる編集も、継承という営みを観客に丁寧に伝え、その重みを細やかな配慮とともに描き出すことに成功している。
それでも、新たな名を引き受け、その名を生きるという、あの深く映画的な瞬間——その最も豊かな鉱脈である「襲名」という行為そのものが持つドラマには、もう少し光が当てられてもよかったのではないか。
しかし、前述した文脈を見つめ直すと、この映画が本当に成し遂げたことが見えてくる。この映画が記録したのは、1つの名跡がいかにして時代を超えて生き延びていくのか、その現在進行形の姿である。
「團十郎」という名は、これからも受け継がれていくだろう。次の世代、そのまた次の世代へと。本作が映し出すのは、「名跡」という重い制度の裏側で、それでも確かに息づいている、ひとつの家族の物語なのだ。

映画『襲名』

9月25日(金)より全国公開中
キャスト/スタッフ
市川團⼗郎 市川新之助
ナレーション 杏
監督 三池崇史
祝幕 村上 隆
製作 紀伊宗之
プロデューサー ⽥中傳次郎 坂美佐⼦
制作プロダクション オー・エル・エム PlanD
協⼒ ⽇本俳優協会
特別協⼒ 松⽵
配給 K2 Pictures
©2026 K2 Pictures・3Top
特別協賛 飯⽥グループホールディングス
協賛 ⻄⽇本シティ TT 証券 都築育英学園 成⽥市 アイレクス ⼭梨中央銀⾏ 卯⽉林業 ファミリーコーポレーション ブッシュクロフィード スタジオぴえろ ティーアールズ
2026/⽇本/カラー/97 分/5.1ch