音楽家・坂本龍一がこの世を去ってから、私たちは幾度となく彼の遺した美しい作品や言葉に触れてきた。しかし、彼が遺したものは、パッケージ化された「過去の記録」だけではないはずだ。
社会や環境に対して疑問を投げかけ、未踏の表現を模索し続けた彼の「現在進行形の思考」は、どのようにしてこれからの時代を生きるクリエイターや、私たち自身へと手渡されるべきなのか。
京都芸術大学(KUA)が開学50周年記念プロジェクトの一環として発表した『Sakamoto Ryuichi Lab at KUA』。これは、最先端のMR技術で蘇るピアノ演奏の追体験と大学機関の新たな試み——そこに立ち現れたのは、坂本龍一の表現者としての執念にも似た、ある圧倒的な「姿勢」だった。
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坂本龍一の遺産を「保存」ではなく「実験」へ繋ぐ、『Sakamoto Ryuichi Lab』
地下に降り、会場に入ると、坂本龍一が世界各地で環境音を採集する映像がモニターに映されていた。巨大な氷塊のそばで鈴のようなものを鳴らす姿。あるいは森の中で、打ち捨てられたバケツや折れた木切れを叩く姿。雨の降る屋内で、ガラス瓶を突いて鳴らす姿。
坂本龍一は、鍵盤に向かうだけの音楽家ではなかった。美術、哲学、文学、テクノロジー、環境、そして社会問題。そのすべてを地続きのものとして捉え実践し続けた「行動する表現者」。彼の足跡を辿ることは、私たち自身が日々「自分の生きる世界とどう向き合っているか」を突きつけられる体験でもある。

今回、京都芸術大学(KUA)が開学50周年記念プロジェクトの一環として発表した『Sakamoto Ryuichi Lab at KUA』の構想は、単なる偉人のアーカイブ施設作りではない。彼が遺した「実践」そのものを保存し、次世代へ繋ぐための実験の始まりである。
同プロジェクトが単なる大学側の記念事業ではなく、坂本自身が望み、「坂本龍一エステート」(※)のもとに推進されているという事実は、本稿の前提として書き留めておきたい。
※坂本龍一エステート:坂本龍一が遺した作品、資料、機材、楽器などの知的・物質的遺産を管理し、次世代へ継承する取り組みを行う団体。
「坂本龍一と京都、そして京都芸術大学との関わりは、長い時間をかけて育まれてきました。
坂本は京都を愛し、幾度となくこの地を訪れました。1999年に発表したオペラ《LIFE》の制作では、1980年代からの友人である浅田彰さん、ダムタイプの高谷史郎さんらの協力を得て、「京都会議」と称する集まりを重ね、作品をつくっていきました。その後も寺院を舞台とした実験的なライブなど、京都にゆかりのある芸術家や研究者との協働をつづけ、その関心と活動は音楽を超えて多様な領域へと広がりました。2012年頃には京都・九条山に生活と創作の拠点を構えようと、建築家の青木淳さんに設計を依頼して具体化を進めていました。この計画は実現しませんでしたが、京都とのつながりはその後も途切れることなく、亡くなるまでさまざまな分野の人々との交流が続きました。
京都芸術大学との交流も長く、京都芸術劇場春秋座では、2005年に高谷史郎さんとライブを上演し、2010年には『スコラ坂本龍一音楽の学校』夏期特別講座を公開収録しています。
また2010年に始まった「マラルメ・プロジェクト」では、当時、京都芸術大学特任教授・舞台芸術研究センター所長であった渡邊守章さんと、同大学大学院長の浅田彰さんが企画を手がけ、渡邊さんが構成・演出を、高谷史郎さんが映像・美術を、坂本が音楽・音響を担当。足かけ3年におよぶ共創が行われました。
かねてより、京都芸術大学では音楽学科を設ける構想があり、当時の徳山詳直理事長から坂本へ教授就任の申し出もありました。これも実現には至りませんでしたが、こうした話が交わされていたこともまた、坂本と同大学との長い関わりを物語っています。
坂本龍一の没後、私たちは、彼が遺した作品や資料、機材、楽器などの知的・物質的遺産を、広く共有し、未来の創造へとつなげていくための取り組みを進めています。その一つが、すでに発表されている株式会社デジタルガレージとのスタジオプロジェクトです。それと並行し、長く関係を育んできた京都芸術大学に、坂本が遺した機材や楽器を、次の世代の学びや創造のために生かすことができないかと相談しました。この対話から、「Sakamoto Ryuichi Lab at KUA」プロジェクトは始まりました。
坂本は音楽だけの人ではありませんでした。美術、哲学、文学、科学、テクノロジー、環境、社会。さまざまなものに好奇心を持ち、学び、考え、実験し、実践し続けた人でした。その作品や資料、思想、問いを保存するだけでなく、教育と研究の現場で次の世代が読み直し、新たな表現へとつなげていくことが大切だと考えています。
「Sakamoto Ryuichi Lab at KUA」が、学生、研究者、アーティストたちが自由に学び、考え、実験し、そこから新しい問いや表現が生まれていく場となることを強く願っています。」
――坂本龍一エステート
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仮想空間で坂本龍一の演奏を追体験させる『KAGAMI+』
プロジェクト発表に先立ち、同日、希望者向けに坂本龍一のMR(複合現実)ライブ体験『KAGAMI+』の機会が設けられた。特殊なレンズを装着し、仮想空間の中で故人の演奏をライブとして追体験するという最先端の試みである。
映像表現という観点から率直に述べれば、技術が未だ過渡期にあるためか、レンズ内の映像はまだ荒削りな画質であり、発展の余地が見受けられる。また、現代的な建築空間における最先端の試みである一方で、曲調の起伏に合わせて花びらが舞う演出や、夕陽に照らされる都市を切り取った風景写真の使い方には、ある種のノスタルジーや、やや保守的なニュアンスも感じられた。
しかし、そうした技術的なノイズや表層的な「昔っぽさ」ともいえる演出は、坂本龍一という生身の人間が音楽を操り、何かを伝えようとする圧倒的な熱量の前に、あっさりと凌駕されてしまった。同時に、彼がいかに自らの生きた「今」と偽りなく向き合い、この作品を創り上げたのかが、胸に迫ってきたのだ。
彼が弾くシンコペーション(※)や、スタッカート(※)は、楽曲の単なる表面的な装飾ではなく、一つひとつが明確な意味を持った「言語」のように響く。そこにあるのは、人が普遍的に持ち合わせているはずの、他者への愛情のようだった。
※シンコペーション:強拍と弱拍の位置を意図的にずらし、リズムに変化や緊張感を与える音楽手法
※スタッカート:音を本来の長さよりも短く切って、軽やかに音のつながりや表情をつくる音楽手法
最終的に心に残ったのは、坂本龍一のただひたすらに鍵盤と向き合う、プレイヤーとしての真摯な姿。それは音楽やアートに限った話ではない。仕事でも、日常の些細なことでも構わない。彼のように、表現に対してどこまでも真摯な人間でありたい。そんな畏敬の念すら抱かせると同時に、自らの背筋が自然と伸びるような感覚を覚えた。
