ボンボンドロップシール、ASMR動画、あるいは写真の加工 / 補正……昨今のトレンドを見渡してみると、「テクスチャ」がキーワードとして浮かび上がってくる。
そう、いまはどうやら「テクスチャの時代」であるらしい。そこでは、場合によってはテクスチャが「意味(内容)」よりも優先される。この潮流は、音楽や短歌の世界でも見られるのではないか——歌人・瀬口真司と、文筆家・つやちゃんは、このような認識を共有しているようだ。
「テクスチャ派歌人」を自認する瀬口と、テクスチャそのものなペンネームを名乗るつやちゃん。二人に、短歌や音楽におけるテクスチャについて、そして「テクスチャの時代」はどこへ向かうのか、語ってもらった。
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まず、テクスチャとはなにか(ネットリ)
イメージが大切だからイメージのグレープフルーツは濡れている
テクスチャーよりなお意味が痙攣を ひととおり見てくる春の磯
内容よりもエフェクトだって、青春は クリアパーツの夕立が来る
(瀬口真司 歌集『BEAM』より)
—はじめに、お二人がいまを「テクスチャの時代」と呼ばれているのは、どういうことを指しているのか、少し伺えたらと思います。
つやちゃん:たとえばASMRの流行は、テクスチャそのものですよね。自分の記憶だと、ビリー・アイリッシュが出てきた時期、2016年ぐらいかな? あの頃からASMRという言葉が出始めた記憶があります。ビリー・アイリッシュのああいう、イヤホンで聴いてすごいゾクッとくるような感じは、まさに音のテクスチャだったと思うんです。あのあたりから、音楽でもテクスチャみたいなものがすごく重視された印象がありますね。
瀬口:音楽だと、僕はOneohtrix Point Neverがけっこう好きなんですけど、OPNの音楽は身体に触知するような感覚がありますよね。来日公演に行ったときに、信じられないくらい音がデカくて。イヤホンで聴いてもすごいテクスチャだと思うのに、さらに「圧」もあって、すごかったですね。
つやちゃん:OPNもテクスチャの音楽ですよね。圧が掛け合わさると、本当に身体、肌に振動がくるので、そこでまたテクスチャを感じるんですよね。
—つやちゃんさんは先日NiEWの座談会の中で、「バレエコア」とか「コケットコア」といった、文脈や背景を必要としない、ムードや雰囲気が重視されるファッションの流行を指摘されていましたね(該当記事)。こうした「ムード重視」と「テクスチャの重視」は、また別のものなのでしょうか?
つやちゃん:近いですけどレイヤーが少し違っていて、テクスチャは物質的・感覚的な触知の話で、それらが集積し総体的な空気感として認識されるものがムード、と考えています。テクスチャやムードを重視したコミュニケーションが増えてきているのは確かで、それによって意味や物語をすっ飛ばして「感じる」ことができる。同じ被写体、同じスタイリングを撮ったファッション写真でも、どうテクスチャを調整するかでSNSでのバズり方がぜんぜん違ったりとか、そういうことが往々にしてありますよね。
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言葉に空間系のエフェクトをかけるような短歌
—なるほど。では、「意味ではなくテクスチャが重視されたテキスト」というのは、たとえばどういうもののことなんでしょうか?
つやちゃん:瀬口さんがよく例として挙げられている、青松輝さんの短歌がわかりやすいなと思います。
シャンプー 僕は自殺をしてきみが2周目を生きるのはどうだろう
(青松輝 歌集『4』より)
瀬口:はい。ベタに読むと「シャンプーをしているときにこういうことを思った」というように取られると思うんですが、このシャンプーという言葉と1字空けは、「シャンプーをしているときに」という説明ではなくて、歌自体の質感をコーティングするための置き字みたいなものだと思うんです。
シャンプーという言葉が一番最初にあることで、その香りがしてくるというか、香りの操作によって、その後のフレーズのフレーバーを決定的に決めてしまう。意味はないんですよね。それは、シャンプーという行為自体にも意味がない、ということと響き合うと思うんです。シャンプーには、機能や効果や価値だけがあって、「意味」がある行為ではないので。
—なるほど。

瀬口:この初句1字空けという方法について、一部では「フィールド魔法(※)みたいだ」と言っていたりもします。前提になっているのは、短歌の前半と後半、上の句と下の句で全然違うことを言う技法で——「つぶやき+実景」「実景+つぶやき」と言ったりするんですけど——写実的なシーンの記述と思いの記述が、お互いの隠喩になって効果が増していく。それを先鋭化させたのがこれで、相互のフレーズに関係はあるんですけど、その関係は「説明」ではなくて「エフェクター」なんです。空間系のエフェクトをかけたり、エコーがかかっているように聴こえさせるようなことを、単語の持っている雰囲気 / イメージによって操作するんですね。
※フィールド魔法:カードゲームに登場する、場全体に対して影響を及ぼす魔法
つやちゃん:しかも、これがやばいのは、シャンプーの後に自殺という過剰に意味の重い言葉が配置されている。この対比によってよけい言葉の意味が爆発するという構造もすごいなと思いますね。
瀬口:あえて遠いものを選ぶ、俳句の「二物衝撃」(※)みたいな理路がここにはあるんですけど、たとえば食べ物でも、全く別のこの香りとこの香りが組み合わさるとおいしい、みたいなことがありますよね。スパイスカレーとか、パフェのような。短歌を作ること自体がそうだと思うんですよね。言葉と言葉の、それぞれが持っている香りを調合していい感じにする、っていう。
※二物衝撃:異なる2つのものを組み合わせて、そのぶつかり合いを楽しむ方法論。『勝訴ストリップ』(椎名林檎のアルバム名)や「霜降り明星」(お笑い芸人のコンビ名)も二物衝撃の例だと言える。
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りんご味かぶどう味かより、硬さが重視されるグミ
つやちゃん:食べ物で言うと、いま、味が極端に濃いものとか、極端に辛いものが流行っているじゃないですか。あと、グミとかも、食感のバラエティが最近すごいですよね。ああいうのも含めて、食べ物や身の回りのもの全体がすごく「テクスチャ」に寄ってると思うんですよね。
瀬口:そうですね。僕もグミ、好きです。
つやちゃん:めちゃくちゃ硬いグミがあったときに、それがりんご味なのかぶどう味なのかは、もう関係ないんじゃないか、というか。テクスチャの過剰性の方にポイントがあって、それは、この青松さんの短歌や瀬口さんの短歌に近いものを感じるんです。
瀬口:時代的に、娯楽が身体をベースとしたもの、身体感覚に訴えかけるものになってきている、ということでもありますよね。すごく硬いグミとか、もちもちしたグミとか。激辛やデカ盛りは、身体に負荷をかけるということの面白さで、且つそれが先鋭化してきている、と見ることもできます。「サウナ、筋トレ、スパイスカレー」って、ぜんぶ身体に負荷をかける行為ですよね。
つやちゃん:たしかに!
—音楽の場合はどうでしょう。「りんご味かぶどう味かよりも、グミの硬さの方が重視される」というのは、「メロディや和声、リズムよりも、音色選びが重視される」というようなことでしょうか? そういうことがいま起きている?
つやちゃん: 一概に二項対立では言えませんが、音色選びが重視されているのは間違いないと思います。聴きやすいメロディやわかりやすい歌詞を、意図的に過剰なエディットとか、いびつな音色を使って、ある意味で物語的なものを切り刻んでいったり、編集していく。そういった試みがいろんな音楽ジャンルで起きていて、その代表と言えるのがハイパーポップなんじゃないかと思います。

—つやちゃんさんは以前、「R&Bなのかトラップなのかより、雰囲気や美意識が重視される音楽」を「Post-Genre Aesthetic」という言葉を使って説明されていましたよね。
つやちゃん:その話に引きつけて言うとしたら、美学や美意識を表現する際に、いろんなテクスチャが試されるようになった、ということはあると思います。ハイパーポップの起源と言われているソフィー(SOPHIE)の音楽って、「硬い」とか「痛い」とか「破裂する」とか、気持ちよさ以前に音色やテクスチャが身体の境界を試してくるような、画期的なものだったと思うんです。自分の身体に対する違和感をどう音としてアウトプットしていくかというときに、それにぴったり合ったテクスチャや音色を探していったのが、ソフィーたちが2010年代後半に行ったことだったと思います。
つやちゃん:その後起こったのは、ハイパーポップのジャンル化 / スタイル化です。特有のテクスチャや音色が、手法 / ツールとして使われるようになり、様式化していく——この5年くらいはそういう時期だったのかなと思いますね。テクスチャを手法として使っているのか、あるいは、身体と地続きのものとして、テクスチャによって痛みまでを自分の身体として引き受けているのかには、けっこう大きな違いがあると思っています。
瀬口:そうですよね。言葉のレベルだと、既存の文法では言えないようなことを言わなきゃいけなくなったときに、言葉がブチブチにちぎれて、一字空けが多用されたりして。そういう、意味だけじゃなくて雰囲気 / イメージ / テクスチャのゾーンで開拓が進んでいると思うんです。痛みについては、誰がどれだけ歌っても歌われ足りることはないと思っているので、現代の痛みを歌うために、どういう文体が開発されるか。文体っていうか、フォーム / フォルムですよね。音楽でもファッションでもそうだと思いますけど。
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瀬口真司の短歌における「テクスチャ」と「意味」
つやちゃん:瀬口さんの歌集『BEAM』は、言葉の手触りみたいなものをすごく重視している表現だと思ったんです。自分は短歌に詳しいわけではないんですけど、こういうものを書く人がいるんだということに、衝撃を受けました。瀬口さんは「意味派 対 テクスチャ派」というようなことをいろいろなところでおっしゃっていますが、どうやってこのような表現に至ったんでしょうか?
ディベートのあとで二人の年収を換えなさい 大自由大自在
チョコレートボックスのなかではずっと連帯感が続いています
老人に耳をすませばチップチューン、立たせれば江戸八百八町
(瀬口真司 歌集『BEAM』より)
瀬口:教科書で短歌に出会った頃、写実的な歌よりも、北原白秋や与謝野晶子に惹かれたんですね。そうしたロマン主義的なものを先鋭化させていった結果、いまのテクスチャっぽいものに至ったという脈絡はあると思います。
短歌の歴史の中で、王道とされる写実的 / リアリズム的な表現と、それをひっくり返すような反リアリズムの流れは、けっこう揺り戻しがあるんですけど、2000年代にはリアリズムの時代があったんです。そこでやられていたことは、「物をよく見て観察して描写する」という保守本流のリアリズムではなくて、もっと自分の体感に寄り添ったリアリズムで、むしろ描写を捨てていくんですね。そうした技術の脈絡から出てきているものでもあると思いますね。
—近代以降、いわゆるニューウェーブ短歌くらいまでの短歌には、私小説的な生々しい私性の吐露のような側面があったかと思いますが、「テクスチャ派」というのは、そこからもまた違った表現、ポスト私性のような潮流が生まれていると理解すればよさそうでしょうか?
瀬口:そうですね。観察をしてはいるんだけど、なにを観察しているかというと、モノではなく、言葉が持っているイメージの文脈であったりする、ということだと思います。
—それで、「意味」もなくなってきている? 前衛ないしシュルレアリスム的なことともまた違うのですよね?
瀬口:ある種の歌はそういうふうに、意味を軽視するというか、シニフィアンとシニフィエ(※)の関係を解体するようなことをやろうとしていると思います。一度言葉を洗い直して、全く新しいものに仕立て直す。でもこれは、ロシアフォルマリズムにおける異化だったり、塚本邦雄だったり、詩の技術としてはずっとあるものではあるんですね。
※シニフィアンとシニフィエ:シニフィアンは「意味するもの(物の名前など)」、シニフィエは「意味されるもの(その物が持つ特徴など)」。スイスの言語学者ソシュールが提唱した概念。
難しいんですけど、僕の場合は、意味がなくなることは不可能なので、意味は利用する資源と言いますか……。意味から逃げたいわけでは全然ないですね。意味を拒否して自動筆記みたいな感じになりたいわけではない。意味にもイメージや香りがくっついてるので、それをゼロにしてハナモゲラ(※)的になるのは、歌に対して拗ねていると思うんです。短歌のことを愛しているので、拗ねたくはないですね。
※ハナモゲラ:意味のない音の羅列。1970年代後半に山下洋輔、タモリらの仲間内での遊びから発生し流行した。
つやちゃん:いまおっしゃった「意味から逃げたいわけじゃない」というのは、けっこう大事な話なんじゃないかなと思います。たとえばPeterparker69は、めっちゃテクスチャの音楽なんだけど、ちゃんと「歌」もあるじゃないですか。テクスチャの「裂け目」みたいなものによって、歌が面白く聴こえる。
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Peterparker69、長谷川白紙、valknee……音楽と「テクスチャ」
瀬口:長谷川白紙に“ボーイズ・テクスチャー”という曲がありますよね。まさに「テクスチャ」と書いてるし、ボーイズって言ってるし、僕にとってはすごく重要な曲なんですけど。あれって、ほぼ歌詞が聴き取れないのに、ものすごく詞がいいんですよね。その二重性というか、裂け目、引き裂かれにはシンパシーを覚えたりしますね。Peterparker69もそうですね。すごく崩して歌っているけど詞がいい、とか。
つやちゃん:たしかに“ボーイズ・テクスチャー”は象徴的ですね。ちなみに瀬口さんが、短歌や文学以外のジャンルで、意味とテクスチャの兼ね合いや衝突に、共感や同時代性を感じる表現って、なにかあったりしますか?
瀬口:そうですね、やっぱり音楽は、近いことをやろうとしてる人がいっぱいいるなと思います。歌詞の方向性は違うかもしれないですけど、Dos Monosとか。the bercedes menzも面白いと思います。悪ふざけ感もそうだけど、ずっと痛みについて言ってるし。僕はけっこう、苦しそうに歌ってる人が好きな傾向がありますね。
つやちゃん:わかる気がします。どう身体とつながっているかが浮き彫りになりますもんね。ラップだと、valkneeとかもそれに近い気がします。擬音語が多いですよね。意味がまだ言語化されてない状態だったり、感情が言葉になる前のざらついた感じを擬音語で表すのは、それこそテクスチャ派という感じがしますよね。
瀬口:ああ、そうですね。この間出てた曲(“ぷに”)はめっちゃそれを感じました。あれはもうテクスチャしかない、と思って。
つやちゃん:曲名からしてテクスチャですもんね。
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文章における「声」の操作と、テクスチャのこれから
瀬口:テクスチャともうひとつ重要なのは、やっぱり「声」だと思っていて。
つやちゃん:はい、はい。
瀬口:短歌だと、どんなふうに書いても一人称的に作者の声で再生されると思うんですけど、そこに、できることなら音楽のように、オートチューン(※)をかけてみたい。逆再生したりカットアップしたような感じに「声」を操作してみたいんです。
※オートチューン(Auto-Tune):Daft Punkやtofubeatsなどで聴かれるような、いわゆる「ロボ声」「ケロケロ声」を指して用いられる。正確には音程を補正するプラグインの名称。
つやちゃん:なるほど! 声の加工とテクスチャの同居で言えば、瀬口さんのこの歌もやばいです。
デコメ絵文字の僕がぷもぷも動いてる あなた が 大事 だ と言っている
(瀬口真司 歌集『BEAM』より)
つやちゃん:ぷもぷもというテクスチャと、この一字空きを含めた作者の「声」感。
瀬口:それこそY2Kって感じですけど……。当時の携帯電話って、写真を加工してデコメにできましたよね。だから、「僕がデコメになっている」ことはあり得た。その、すごく小さくなった自分がなにかを言っているというのは、たしかに僕の声を加工することでもありますね。僕の声ではあるんだけど、生声ではない、っていう。
つやちゃん:まさしくY2K短歌ですね。この歌って、身体的に失敗している感じが出ているというか、身体的失敗の痕跡だと思うんですよ。
瀬口:そうですね。
つやちゃん:意味から逃げているわけじゃなくて、意味を言おうとしているんだけど、失敗している。且つ、そこにぷもぷもみたいな、Y2Kカワイイ感もある。デジタル化と身体性の衝突みたいなものもあるし、いろんなバランスが絶妙だと思います。それこそPeterparker69とも近いことをやっているように思うし、ものすごくいまにフィットするすごい歌ですよね。

瀬口:ありがとうございます。書かれた文字のうえで「声」を操作するような試みは、まだまだ可能だと思っているし、それが必要だとも思いますね。あとは、母音の崩し方とか。VERBALが櫻井翔にラップ指導をするときに、「叫べ」と発音しちゃうと「a / e / e」でしか踏めないけど、たとえば「さけぃべぃ」というふうに崩して発音すると韻が広がるよ、というようなことを言っているんですが、ズルいなーと思いました(笑)。書いている文字だと母音って崩れないですからね。でも、これって、短歌だと、ギリギリできるかもしれない、とも思うんですよ。
つやちゃん:そうですよね、可能性はありますよね。これからも瀬口さんのいろいろな実験が楽しみですが、今後について考えていることはありますか?
瀬口:そうですね……もっと広く届くようなものを書かなきゃと考えたときに、「あるあるネタ」みたいなことを言えば届くんだけど、そこにアジャストしたくないんです。穂村弘さんは「シンパシーとワンダー」、つまり「共感と驚異」という言葉で説明しているんですけど、シンパシーに全振りすれば読者は広がるけれど、ワンダーがないとダメっていう。ただ、それは二項対立的なものではなくて、グラデーションだと思うんです。この間の「あとちょっとで手が届くかもしれない」と思われるところにチューニングしたい、と思っています。
つやちゃん:とてもよくわかります。そうなんだよな……2020年代の状況として、「意味」は共感に回収されていき、「テクスチャ」はただのアテンションに回収されていったという悲劇があると思っていて。そこからいかに違う道を探していけるのか、いろんな局面で考えますよね。意味とテクスチャを二項対立で考えるんじゃなくて、相互補完的、相互影響的に考えていくことが必要だと思いますね。
瀬口:はい。具体的な作品の中では、その組み替えは行われ得ると思うんですよね。
つやちゃん:そうですね。色々な分野でのそういった挑戦に、今後も目を凝らしたり耳を傾けたりしていきたいと思います。
瀬口真司『BEAM』

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