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その選曲が、映画をつくる

「私は何のために作られたの?」と問うているのは、映画『バービー』それ自体かもしれない

2023.8.8

#MOVIE

©2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
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「過去の焼き直し」と「記号の考察」の潮流への疑問

こうしてみると、現在の大作映画にとって、過去の音楽の意匠というのがいかに有効な「タグ」的演出装置として機能しているかという、おなじみの感嘆が導かれてくる。しかし他方では、果たして『バービー』のような社会派「たるべき」巨大エンタメ映画がそんなチマチマしたノスタルジア的表象と戯れていていいのか……? という疑問が沸き立ってくるのも正直なところだ。

「いや、ちゃんと若手のフレッシュなアーティストがこぞって参加しているじゃないか」という指摘に対しては、たしかにその通りですね、と返すべきだろう。けれども、例えば本作のサウンドトラックに参加しているPinkPantheress やGAYLEなどが、しばしばドラムンベースリバイバルやポップパンクリバイバルの文脈と結びつけて語られがちで、実際彼女達によって提供された曲にそういう意匠が明確に現れていることを思うと、やっぱりそこにも「ファンタジーとしてのノスタルジア」が脈動していると考えるべきだろう。あえて飛躍して言えば、これは、現在の主流ポップミュージックシーンが、巨大資本制作の昨今の大作映画の潮流と同じく、いかに「過去の焼き直し」に躍起になっているか、という現状を改めて証明していると分析するのも可能だろう。

商業映画にせよポップミュージックにせよ、巨大資本によって制作されるコンテンツにおいて、こうした傾向は過去数十年を経てより一層顕著になってきていると感じる。そこに、ユーザー参加型のコンバージェンスカルチャー的な「読み解きの楽しさ」があるのも事実だろう。実際に上で私がやってみせたように、過去の音楽が孕んでいた様々な意味、付随していた文脈をふまえた上で、その撹乱ぶりと再文脈化の様子を楽しむという鑑賞の態度は、いわゆる「マニア」だけの振る舞いにとどまらず、どんどん一般化しているようにも思われる(昨今の「考察」「解釈」文化のインフレ状況をみよ!)。これを、あらゆる過去のコンテンツと最新コンテンツが脱時間化された上で並列的に消費されるポストモダン商品経済の深化と論じてみるのはいかにも容易いだろう(かつてフレドリック・ジェイムソンが『スター・ウォーズ』シリーズをその宇宙的外観にも関わらず「ノスタルジア映画」であると看破したことを記しておこう)。

しかしながら、一方で、『バービー』における過去の文化的意匠の「丁寧過ぎる」取り扱いやこねくり回し、さらに「ジョークのわかる観客」を前提的(選別的?)に要請するような語り口というのは、(上の通り私自身すっかり楽しんでしまった手前こういっては何だが)、まさしく、この間のブロックバスター映画における記号ゲームの隆盛をあまりよくない意味で象徴してしまっているようにも思えるのだ。

©2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.

「記号ゲーム」は、作品に託された思想まで「記号」にしてしまう

まず、その語り口に微残する自家中毒的な姿勢が気にならないと言えば嘘になる。「『ゴッドファーザー』シリーズについて蘊蓄(うんちく)を垂れる映画好き男性」のマンスプレイニング仕草を「あるある」としてジョークにするのはいいけれど、そもそも、「それをジョークとして受け取るためのメタ的視点」をはじめから観客に求めるその仕組みが、このジョークの批判的機能を無効化してしまってはいないだろうか。要するに、「男性による知識の垂訓」に権力構造を読み取ってそれを批判する一方で、その描写に「クスッ」と出来るサークルに加入するためのメンバーシップそれ自体が、ある種の知的資本の存在を前提としてしまっているのではないか、という批判が成り立ってしまうかもしれないわけだ(念のため述べておけば、「ジョーク」全般を問題にしているのではなく、そこに付随しているある視点に疑義を投げかけていることに留意されたい。言うまでもなくジョークやそれが体現するユーモアは、その映画が仮に「社会的」な作品だとしても、いや、むしろ「社会的な作品」の場合には余計に重要な要素の一つだろう)。

とすると、ハッキリ言ってしまえば、「社会的」にみえるこの大作の倫理を下支えしているのは、結局のところ、サブカルチャーエリート達による記号ゲーム / 自己言及ゲーム様の、閉塞した論理に過ぎないのではないか……? という疑いが持ち上がってきてしまうのだ。

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近年の大作「話題映画」には、こういう記号ゲーム / 自己言及ゲームのような構造が相当程度浸透しており、上で述べたような「考察」や「解釈」の「民主化」に伴い、おそらくこの傾向は今後より一層大規模化していくと予想する。しかも、何よりもそうしたゲーム的な構造の存在を鋭く意識しているのは、おそらく映画の造り手達(およびその出資者達)に他ならない、というのも昨今の大作映画の特徴に思われる。

そうした微細な「文化的知識」に基づいた記号を賭け金としたゲーム的構造というのは、ある種の不可逆的な伝播力を持っているようだ。特定のジョークをはじめ、音楽、美術、プロットなどがそうした構造へと収斂していくのは理解しやすいとして、ぞっとするのは、ときに映画内で取り扱われる外在的な要素=社会的なメッセージすらもが、そうした構造へと絡め取られてしまうことだ。記号的操作それ自体の「脱イデオロギー」的な傾向が、翻って、作品に託されたはずの「思想」すらも記号化し、あらゆる事象をスペクタクル化していく––これは、記号的な差異ゲームの敷衍という意味において、すぐれて資本主義(リアリズム)的な運動の宿命であるといえるだろう。

本作は果たして「コレクトでエラい」のか

冒頭で述べた通り、本作『バービー』における社会意識の高さ、様々な社会問題への自覚的な眼差しには、刮目すべきものがある。けれど、結局のところそれらの姿勢が、マテル社をはじめとする巨大資本が円卓に座る高度商品経済 / コンテンツ業界の便益を促進させるための「タグ」的な記号として機能するほかないという現実を考えたとき、当然ながら「この映画はきちんと社会問題をテーマにしていてエラい!」と言って済ませてしまっていいのだろうか、という疑問が浮上してくる。

劇中で、ウィル・ファレル演じるマテル社のCEOが、自社に過去に女性の重役が存在したこと、ジェンダーレストイレを設置していることを理由に多様性を誇らしく謳ってふんぞり返ってみせるというジョークがあるが、まさに、この映画自体がその「ジェンダーレストイレの設置という方便」と同様の政治的な「記号」として機能させられてしまうという皮肉がここに現れている。あるいはまた、重要な登場人物の一人であるサーシャが、バービーを消費主義社会における悪の象徴として痛罵するその声が、この映画にとっての巨大な「ブーメラン」ともなりうるという構造。これらは、巨大メディア / コンテンツ企業のコングロマリット体制によって作られた「社会派映画」が宿命的に抱え込まざるを得ないジレンマといえる。

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くりかえすが、もちろん類稀な才気と知性を備えた制作陣のことだから、こういうジレンマは先刻承知のはずだ。しかしながら、だからこそ私は、この映画から、エンパワーメントのエネルギーにも増して、そうしたジレンマに対するややペシミスティックな視線も感じ取ってしまうのだった(先に述べた自己言及的なブラックジョークの危うい配置はその最もたるものだと感じた)。そして、このジレンマへのいわくいい難い感情は、見る側にもじっとりと伝染し得ると思うし、実際、この映画の「良き」観客として想定されている「ジョークを解する進歩的なオトナの人々」であれば、それを感じ取らないわけにはいかないはずだ。

そして、そのような鑑賞の仕方は、「(様々なスポンサー契約や放映権にまつわる巨大な権益、あるいは政治的な思惑や不正が蠢いているのを知りながら、それはそれとして)『純粋に』スポーツの感動を味わうべくオリンピックを観戦する」ような態度とも通底するものではないのか。ある意味では、それこそが究極の資本主義リアリズムではないか? それでいいのだろうか、いやしかし、でも「現実」は「理想」とは違うから……。仮に、そういう逡巡の疲労感を和らげるために「社会派」の大作映画が機能してしまっているのだとしたら、あまりに皮肉ではないか。

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