音楽ディレクター / 評論家の柴崎祐二が、映画の中のポップミュージックを読み解く連載「その選曲が、映画をつくる」。第4回は、マーゴット・ロビー主演『バービー』を取り上げる。
バービー人形をモチーフに、ジェンダーをはじめ種々の社会的なテーマに取り組んだ本作は、Netflixの諸作品とも通じるような、いかにも今日的なエンターテイメント作品といえる。マーク・ロンソンのプロデュースのもと、今を代表する豪華なミュージシャンが集結したサウンドトラックも大きな話題だ。
柴崎は、本作の社会問題への眼差しや音楽の優れた使用に一定の評価を示しつつも、それらが「目配せ」的な「記号」となっていることに疑義を呈する。それは、メタ的な手法が常套化し、イースターエッグの「考察」ゲーム化が加速している今日の映画全般、ひいてはポップカルチャー全般への、内省的な批判でもある。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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現代的な問題意識を色濃く反映した映画
歴史あるファッションドールの世界を実写化するという難題に挑んだ大作映画、『バービー』。公開前から大掛かりなプロモーションが展開され、米本国でも巨大なヒットを記録するなど、ここ最近の新作映画の中でも飛び抜けた話題作となっている。
監督 / 共同脚本をグレタ・ガーウィグが務め、主演兼製作にマーゴット・ロビー(バービー役)、助演にライアン・ゴズリング(バービーのボーイフレンド、ケン役)が名を連ねる本作は、子供用玩具としてのバービー像からは大胆に離れた、様々な意味で「大人向け」の内容となっている。
バービー人形の歴史は1959年に遡る。マテル社の共同設立者ルース・ハンドラーによって開発された初代バービー人形は、「トイドールといえば赤ん坊を模したもの」という玩具業界におけるそれまでの常識を打ち破る、ハイティーン女性の姿を形どったものだった。長身の体型やブロンドヘアなど、いかにも「理想的なアメリカ女性」らしいその姿は、革新的な玩具として評価を受けた一方で、旧弊なジェンダー規範や「女性らしさ」を流布 / 補強する存在として、度々批判の的となってきた。その後、時代とともに急速に多様化していったバービー人形の職業的バリエーションは、女性を主に私的領域(家庭)に縛りつけようとする旧来のジェンダー観=いわゆる「ドメスティックイデオロギー」に挑戦するものでもあった。加えて、「ブラックバービー」や「ヒスパニックバービー」、更には、世界各地域の民俗衣装をまとう「ドールズ・オブ・ザ・ワールド」シリーズも登場するなど、人種 / エスニシティ上の多様性も広げていき、いつしかバービーは、グローバル化時代における自律的な現代女性像を体現するアイコンとなっていった。
今作『バービー』も、当然ながらそうしたバービーの歴史を深く汲みながら、更により現代的な問題意識を色濃く反映した映画に仕上がっている。目立ったトピック挙げるだけでも、ロマンチックラブイデオロギー批判、家父長制的構造やトキシックマスキュリニティ批判、ジェンダーのパフォーマティヴィティ、現代人の実存的危機、メンタルヘルスの問題、更にはブルシットジョブ批判に至るまで、様々な社会的問題を射程に収め、それらへの対抗的意識が織り込まれているのがわかる。

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「おとぎの国」の「古き良き」意匠
序盤の舞台となるのは、マーゴット・ロビー演じる「典型的なバービー」をはじめ様々なバービー達(と彼女達の「添え物」であるボーイフレンドのケン達)が暮らすおとぎの国「バービーランド」だ。パーティーやサーフィン、ドライブなど、連日夢のような暮らしが繰り広げられる中、ある日バービー(ロビー)はそれまで完璧だと信じていた自らの身体に異変を感じる。その原因を探るため、バービーとケン(ゴズリング)は人間の世界=「リアルワールド」へと向かうが、二人はそこでショッキングな「現実」を知り……というのがあらすじだ。
映画冒頭からまず目を引くのが、バービー達のファッションと、バービーランドの造形だろう。昔ながらのドールハウス(ドリームハウス)を思わせるピンク色をふんだんに使ったミッドセンチュリー風の美術やファッションは、1950年代から続く「古き良きアメリカ」のイメージを強調し、観客を「夢の国」の幻想へと誘う。

マーク・ロンソンお得意の「過去の音楽意匠の再調理」が冴えわたる
そして、音楽もまた、「あの頃」をデフォルメ的に演出する装置として縦横無尽に配置されている。サウンドトラックの共同制作を務めたのは、トッププロデューサー、マーク・ロンソンだ。現代的なダンスミュージックの中にノスタルジックな意匠を溶け込ませる手法を得意とする彼は、最新のサウンドとともにきらびやかなミュージカル映画の伝統へもオマージュを捧げる本作にとって、またとない適材といえる。
参加アーティストも実に豪華だ。デュア・リパ、サム・スミス、Lizzo、ビリー・アイリッシュ、GAYLE、PinkPantheress、Ava Max、ニッキー・ミナージュ&Ice Spice、Karol G、Tame Impala、HAIM等、ポップスから、R&B、レゲトン、ロックまで、多くのトップスターが顔を揃え、映画のために新曲を制作した。
それぞれ各アーティストの個性を反映した曲が目白押しだが、全体を通じてパーティーチューン、特にディスコ調の曲が目立っているのが面白い。映画のオープニングに使用されるLizzoの“Pink”、ダンスパーティーのシーンで流れるデュア・リパの“Dance The Night”、サム・スミスの“Man I Am”は、あからさまに1970年代後半〜1980年代初頭のディスコサウンドを参照している。作中でもそれらしき描写が見られるが、このあたり、どうやらディスコ映画の傑作『サタデー・ナイト・フィーバー』へのオマージュとなっているようだ。

こうした、即座に「〇〇風」というイメージを喚起させるような、ある種の「アイコン性」に寄った音楽の使い方というのは、MCU作品含め昨今の大作映画全般においてよくある手法だが、本作はそうした傾向を特に強く感じさせる。
例えば、Charli XCXの“Speed Drive”では、トニー・バジルの“Mickey”が引用されているし、Tame Impalaの“Journey to the Real World”は、同じくあからさまに1980年代のシンセポップ(Pet Shop Boys?)風だ。
こうした視点で最も強く興味を引かれるのが、ライアン・ゴズリングが歌う“I’m Just Ken”だ。バービーランドにおいてあくまでバービーの「添え物」でしかなかったケンが、人間社会の家父長制的構造を目にして男性としての「誇り」や「主体性」に「目覚めた」のちに歌われる曲で、作曲を務めたロンソンの十八番である過去の音楽意匠の再調理手法が冴えわたっている。明らかに時代遅れのパワーロックバラードである本曲は、ケンの「覚醒」の前時代的な滑稽さに対して嗤いを誘おうとしていると推察できるが、一方で、編曲などは如実にQUEEN風であることから、「男らしさ」への単純な揶揄と受け取るのをためらわせる、いかにも意味ありげなイースターエッグとなっている。

加えて、サウンドトラックアルバムには収録されていないが重要な(?)役割を与えられている曲、Matchbox Twentyの“Push”にも注目したい。オルタナ系ポップロックを代表する同バンドが1997年にリリースしたこの曲は、マスキュリニティの権威性に覚醒したケンの「お気に入り」として紹介され、更には、(ゴズリングを含めた)ケン達がバービー達を口説くために(実はバービー達にそう仕向けられているとは知らず焚き火をうっとりと眺めながら)ギター片手に自己陶酔気味に弾き語るという、とかなり揶揄的な使われ方をしている。これには、実際のところ長年のアメリカンロックファンである筆者自身も苦笑と冷や汗を禁じ得なかった(一連のシークエンスでは、もう一つ「オルタナロック好き男性」の頬を痛打する尖ったジョークが炸裂する)。
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「過去の焼き直し」と「記号の考察」の潮流への疑問
こうしてみると、現在の大作映画にとって、過去の音楽の意匠というのがいかに有効な「タグ」的演出装置として機能しているかという、おなじみの感嘆が導かれてくる。しかし他方では、果たして『バービー』のような社会派「たるべき」巨大エンタメ映画がそんなチマチマしたノスタルジア的表象と戯れていていいのか……? という疑問が沸き立ってくるのも正直なところだ。
「いや、ちゃんと若手のフレッシュなアーティストがこぞって参加しているじゃないか」という指摘に対しては、たしかにその通りですね、と返すべきだろう。けれども、例えば本作のサウンドトラックに参加しているPinkPantheress やGAYLEなどが、しばしばドラムンベースリバイバルやポップパンクリバイバルの文脈と結びつけて語られがちで、実際彼女達によって提供された曲にそういう意匠が明確に現れていることを思うと、やっぱりそこにも「ファンタジーとしてのノスタルジア」が脈動していると考えるべきだろう。あえて飛躍して言えば、これは、現在の主流ポップミュージックシーンが、巨大資本制作の昨今の大作映画の潮流と同じく、いかに「過去の焼き直し」に躍起になっているか、という現状を改めて証明していると分析するのも可能だろう。
商業映画にせよポップミュージックにせよ、巨大資本によって制作されるコンテンツにおいて、こうした傾向は過去数十年を経てより一層顕著になってきていると感じる。そこに、ユーザー参加型のコンバージェンスカルチャー的な「読み解きの楽しさ」があるのも事実だろう。実際に上で私がやってみせたように、過去の音楽が孕んでいた様々な意味、付随していた文脈をふまえた上で、その撹乱ぶりと再文脈化の様子を楽しむという鑑賞の態度は、いわゆる「マニア」だけの振る舞いにとどまらず、どんどん一般化しているようにも思われる(昨今の「考察」「解釈」文化のインフレ状況をみよ!)。これを、あらゆる過去のコンテンツと最新コンテンツが脱時間化された上で並列的に消費されるポストモダン商品経済の深化と論じてみるのはいかにも容易いだろう(かつてフレドリック・ジェイムソンが『スター・ウォーズ』シリーズをその宇宙的外観にも関わらず「ノスタルジア映画」であると看破したことを記しておこう)。
しかしながら、一方で、『バービー』における過去の文化的意匠の「丁寧過ぎる」取り扱いやこねくり回し、さらに「ジョークのわかる観客」を前提的(選別的?)に要請するような語り口というのは、(上の通り私自身すっかり楽しんでしまった手前こういっては何だが)、まさしく、この間のブロックバスター映画における記号ゲームの隆盛をあまりよくない意味で象徴してしまっているようにも思えるのだ。

「記号ゲーム」は、作品に託された思想まで「記号」にしてしまう
まず、その語り口に微残する自家中毒的な姿勢が気にならないと言えば嘘になる。「『ゴッドファーザー』シリーズについて蘊蓄(うんちく)を垂れる映画好き男性」のマンスプレイニング仕草を「あるある」としてジョークにするのはいいけれど、そもそも、「それをジョークとして受け取るためのメタ的視点」をはじめから観客に求めるその仕組みが、このジョークの批判的機能を無効化してしまってはいないだろうか。要するに、「男性による知識の垂訓」に権力構造を読み取ってそれを批判する一方で、その描写に「クスッ」と出来るサークルに加入するためのメンバーシップそれ自体が、ある種の知的資本の存在を前提としてしまっているのではないか、という批判が成り立ってしまうかもしれないわけだ(念のため述べておけば、「ジョーク」全般を問題にしているのではなく、そこに付随しているある視点に疑義を投げかけていることに留意されたい。言うまでもなくジョークやそれが体現するユーモアは、その映画が仮に「社会的」な作品だとしても、いや、むしろ「社会的な作品」の場合には余計に重要な要素の一つだろう)。
とすると、ハッキリ言ってしまえば、「社会的」にみえるこの大作の倫理を下支えしているのは、結局のところ、サブカルチャーエリート達による記号ゲーム / 自己言及ゲーム様の、閉塞した論理に過ぎないのではないか……? という疑いが持ち上がってきてしまうのだ。

近年の大作「話題映画」には、こういう記号ゲーム / 自己言及ゲームのような構造が相当程度浸透しており、上で述べたような「考察」や「解釈」の「民主化」に伴い、おそらくこの傾向は今後より一層大規模化していくと予想する。しかも、何よりもそうしたゲーム的な構造の存在を鋭く意識しているのは、おそらく映画の造り手達(およびその出資者達)に他ならない、というのも昨今の大作映画の特徴に思われる。
そうした微細な「文化的知識」に基づいた記号を賭け金としたゲーム的構造というのは、ある種の不可逆的な伝播力を持っているようだ。特定のジョークをはじめ、音楽、美術、プロットなどがそうした構造へと収斂していくのは理解しやすいとして、ぞっとするのは、ときに映画内で取り扱われる外在的な要素=社会的なメッセージすらもが、そうした構造へと絡め取られてしまうことだ。記号的操作それ自体の「脱イデオロギー」的な傾向が、翻って、作品に託されたはずの「思想」すらも記号化し、あらゆる事象をスペクタクル化していく––これは、記号的な差異ゲームの敷衍という意味において、すぐれて資本主義(リアリズム)的な運動の宿命であるといえるだろう。
本作は果たして「コレクトでエラい」のか
冒頭で述べた通り、本作『バービー』における社会意識の高さ、様々な社会問題への自覚的な眼差しには、刮目すべきものがある。けれど、結局のところそれらの姿勢が、マテル社をはじめとする巨大資本が円卓に座る高度商品経済 / コンテンツ業界の便益を促進させるための「タグ」的な記号として機能するほかないという現実を考えたとき、当然ながら「この映画はきちんと社会問題をテーマにしていてエラい!」と言って済ませてしまっていいのだろうか、という疑問が浮上してくる。
劇中で、ウィル・ファレル演じるマテル社のCEOが、自社に過去に女性の重役が存在したこと、ジェンダーレストイレを設置していることを理由に多様性を誇らしく謳ってふんぞり返ってみせるというジョークがあるが、まさに、この映画自体がその「ジェンダーレストイレの設置という方便」と同様の政治的な「記号」として機能させられてしまうという皮肉がここに現れている。あるいはまた、重要な登場人物の一人であるサーシャが、バービーを消費主義社会における悪の象徴として痛罵するその声が、この映画にとっての巨大な「ブーメラン」ともなりうるという構造。これらは、巨大メディア / コンテンツ企業のコングロマリット体制によって作られた「社会派映画」が宿命的に抱え込まざるを得ないジレンマといえる。

くりかえすが、もちろん類稀な才気と知性を備えた制作陣のことだから、こういうジレンマは先刻承知のはずだ。しかしながら、だからこそ私は、この映画から、エンパワーメントのエネルギーにも増して、そうしたジレンマに対するややペシミスティックな視線も感じ取ってしまうのだった(先に述べた自己言及的なブラックジョークの危うい配置はその最もたるものだと感じた)。そして、このジレンマへのいわくいい難い感情は、見る側にもじっとりと伝染し得ると思うし、実際、この映画の「良き」観客として想定されている「ジョークを解する進歩的なオトナの人々」であれば、それを感じ取らないわけにはいかないはずだ。
そして、そのような鑑賞の仕方は、「(様々なスポンサー契約や放映権にまつわる巨大な権益、あるいは政治的な思惑や不正が蠢いているのを知りながら、それはそれとして)『純粋に』スポーツの感動を味わうべくオリンピックを観戦する」ような態度とも通底するものではないのか。ある意味では、それこそが究極の資本主義リアリズムではないか? それでいいのだろうか、いやしかし、でも「現実」は「理想」とは違うから……。仮に、そういう逡巡の疲労感を和らげるために「社会派」の大作映画が機能してしまっているのだとしたら、あまりに皮肉ではないか。
