INDEX
「高踏的」ではある。が、しかし……
音楽に限らず、様々な小説作品(ウィリアム・フォークナー『野生の棕櫚』、幸田文『木』、パトリシア・ハイスミス『11の物語』)や古めかしい日本製フィルムカメラなど、本作に登場する様々な「カルチャー」の断片は、いかにも、というか、ひょっとすると少し嫌味に感じられるほどに「趣味が良い」ものばかりだ。
実際、そうした面から本作を批判する声も少なくないようだ。平山のフィクショナルなストイシズムや、いかにも教養に溢れた文化的な「孤高の人」としての主人公の姿にフォーカスし賛美するあまり、それらの描写が単なる文化的な符牒・記号として機能してしまっており、しかも制作者側がそれに自足しているのではないか、という指摘がなされるのは、確かに道理が通っているようにも感じる。もっといえば、この映画がある種の知的階級による高踏趣味から逃れ出ておらず、多くのブルーカラー労働者がおかれている現実、あるいは背後に潜む社会的 / 経済的な問題に直接的に目を向けようとしていないという批判を退けるのは、なかなか難しいといえそうだ(*)。
*ことさらに擁護するわけではないが、本作の設定に関わる話として次のことも述べておく。「文化資本に恵まれた物静かなエッセンシャルワーカー」という平山のキャラクター造形は、たしかにある視点からは、いかにもフィクショナルで無垢なプロフェッショナル信仰を補強する都合の良いものに感じられるかもしれない。しかし、映画が進むに連れ、どうやら彼はあるのっぴきならない事情によって自ら選んで現在の生活を送っていること、更に、かつてはそれなりに社会的地位の高い人物であったことがほのめかされる。
加えて、仮に彼の過去にのっぴきならない由縁がなかったとしても、そういう人物が「現実」に存在している可能性を私達読み手が勝手に閉ざしてしまい、「リアルではない」と指弾するのだとしたら、それもまたずいぶん出過ぎた行為だろう。

そうした批判は十分に有り得るし、少なからず与すべき余地もあると考える。しかし一方で、それが映画の価値を即座かつ全面的に貶めてしまうとも思わないし、有り体な言い方をすれば、そもそもこれまで歴史的な評価を獲得してきた過去のヴェンダース作品に同様の傾向が皆無だったかといえば、やはりそんなことはないだろう。何がいいたいかといえば、ヴェンダース作品の美質は、しばしばそうした「瑕疵」を補って余りあったはずだし、それは本作においても同様のはずだ、ということだ。