みなさん、今年もよろしくお願いします! 2024年はどんなパーティーがあって、どんな曲がフロアに響くか楽しみです。
去年はRomyのアルバム『Mid Air』のリリースをきっかけに1997年から1999年あたりまでのトランスを再発見したことでダンスポップという概念が自分の中で具体的なイメージとなった。1990年代から2000年代前半までのハウスやトランスがここに来てもう一度新鮮に響いたことで、年末年始は退屈することなく音楽を聴き続けることができた。まさに自分のイメージとしても、また現実の認識としてもダンスポップど真ん中であるカイリー・ミノーグの最新作『Tension』がヘヴィーローテーションの真っ最中、改めて今必要なのはパーティーだと確信した。今年はどこかで今僕自身が考えているテーマでパーティーをやろうと思う。
さて今回は、僕にとってのルーツである1980年代末のイギリスを席巻したマッドチェスタームーブメントについて書いてみようと思う。実は今月20日に下北沢のSPREADというクラブで『MADCHESTER NIGHT』というイベントをやるので、もしこの文章を読んで興味を持った人がいたらぜひ遊びに来てほしい。
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マッドなパーティーを繰り広げていたマンチェスター
「マッドチェスター」とは1980年代末に起こったムーブメントのことで、The Stone Roses、Happy Mondays、The Charlatans、Inspiral Carpetsなどマンチェスターのバンドを中心にダンスビートを取り入れたインディーロックのブームを言う。これはHappy Mondaysの『MADCHSTER RAVE ON』というEPのタイトルとして知られている。
この言葉はHappy Mondaysのレーベルオーナーであるトニー・ウィルソンが最初に発言し、イギリスのメディアによって広められた。当時はインディーバンドがダンスビートを取り入れるサウンドをインディーダンスと呼んでいて、Primal Screamの”Loaded”やMy Bloody Valentineの”Soon”などが大ヒットしていた。もちろんThe Stone Rosesをはじめマンチェスターのバンドの勢いが凄かったこともあるが、本当のところ一番マッドなパーティーを繰り広げていたのがマンチェスターだったからだ。
その中心がFactory Recordsの経営するハシエンダ(The Haçienda)というクラブだった。ハシエンダはスペイン語でHomeという意味で、その名の通りハシエンダはヨーロッパでパーティーフリークたちのホームとなる。僕は個人的にHappy MondaysのベズやThe Stone Rosesのマニからその当時の熱狂がいかにマッドだったかを聞くことができたのだが、とてもここでは書けないような出来事ばかり。全く誇張なしによく彼らがあの時代に死ななかったのが不思議ほどだ。
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Wigan Casinoで生まれたノーザンソウル
ではなぜマンチェスターでパーティーが盛り上がったのか。当たり前のことだけど、まずイングランド北部の人たちは本当にパーティーと音楽を愛していて、その度合いは僕らの想像を超えている。そういう人たちが作ってきたシーンのルーツが、Wigan Casinoというクラブだ。The Verveの出身地ウィガン――マンチェスターとリバプールに挟まれたこの土地で1967年にスタートしたWigan Casinoでプレイされたアメリカのソウルやファンク、ディスコなどが「ノーザンソウル」と呼ばれ、広まってゆく。1960年代後半のモッズカルチャーと強く結びつき、ピークの1970年代前半にはイギリス中から人が集まったという。これは1980年代にハシエンダに通うためにマンチェスター大学の受験者が増えたり(The Chemical Brothersがまさにそうだった)、1990年代にリバプールのスーパークラブcreamに通うためにリバプール大学の受験生が激増した現象と同じだろう。
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インディーとディスコ、パンクとファンクのミックス、そしてアシッドハウスの襲来
ハシエンダは音楽的にはロック、ニューウェーブのクラブ、ライブハウスとして1982年にスタートした。その背景や青写真には間違いなくWigan Casinoがあったはずだ。ここから多くのマンチェスターのバンドが出現し、音楽的な実験が繰り広げられていった。それはインディーとディスコ、パンクとファンクのミックスと言える。1970年代以降のマンチェスターを代表的するバンドといえばBuzzcocks、The Fall、JOY DIVISION、New Order、The Smiths、The Stone RosesそしてOasis。1976年にBuzzcocksが企画したSEX PISTOLSのライブにはFactory Recordsのトニー・ウィルソン、JOY DIVISIONのメンバーとモリッシー(The Smiths)が来ていたという事実からも、パンクが大きな転機だったことがわかるだろう。その日から6年後にFactory Recordsは音楽的な実験場となるハシエンダをオープンする。
そして1988年、イギリスにアシッドハウスの嵐が吹き荒れる。1980年代中旬にシカゴやデトロイトで生まれたシンセとリズムボックスで作られたダンスミュージックは、ディスコをクラブへと変貌させていく。New Orderを擁したFactory Recordsのチームにとってエレクトリックなダンスミュージックは非常に刺激的だったに違いない。また同時期にポール・オークンフォールドやダニー・ランプリングなどロンドンを拠点としていたDJ達がイビサのパーティーを体験し、初期のアシッドハウスをイギリスに持ち帰る。
当時のイビサのクラブ、アムネシアでDJがロックとハウスやイタロディスコをミックスするスタイルは後にバレアリックと呼ばれる。すぐにハシエンダでもマイク・ピッカリングがイビサスタイルのパーティーをスタートさせ、アシッドハウスは新しいサウンドとして全国に広がり、空前のレイヴムーブメントが始まる。その過熱ぶりは僕らの想像を絶するものだった。
多くの論評ではアシッドハウスの流行は合成麻薬であるエクスタシーが主な原因とされる。確かにエクスタシーが大きなきっかけだったことは間違いないが、それ以上に大きな要因は人々の意識だったと思う。経済的にも苦しんだ1970年代末から1980年代のイギリスの若者たちは、厳しい現実に押し潰されるよりも明るい未来を信じることを選んだのではないだろうか。特に1970年代に10代でパンクに憧れながら間に合わなかった世代だったThe Stone RosesやHappy Mondaysのメンバーたちは、パンクのDIY精神を持ちながら自分たちのメッセージを歌い始める。そのタイミングで起きたアシッドハウスの嵐は音楽の現場やパーティーを一変させた。The Stone Rosesの”She Bangs The Drum”で歌われる<未来は僕のもの>という一節がそれを何よりも物語っている、心の底から希望を歌う時が来たのである。