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インディーとディスコ、パンクとファンクのミックス、そしてアシッドハウスの襲来
ハシエンダは音楽的にはロック、ニューウェーブのクラブ、ライブハウスとして1982年にスタートした。その背景や青写真には間違いなくWigan Casinoがあったはずだ。ここから多くのマンチェスターのバンドが出現し、音楽的な実験が繰り広げられていった。それはインディーとディスコ、パンクとファンクのミックスと言える。1970年代以降のマンチェスターを代表的するバンドといえばBuzzcocks、The Fall、JOY DIVISION、New Order、The Smiths、The Stone RosesそしてOasis。1976年にBuzzcocksが企画したSEX PISTOLSのライブにはFactory Recordsのトニー・ウィルソン、JOY DIVISIONのメンバーとモリッシー(The Smiths)が来ていたという事実からも、パンクが大きな転機だったことがわかるだろう。その日から6年後にFactory Recordsは音楽的な実験場となるハシエンダをオープンする。
そして1988年、イギリスにアシッドハウスの嵐が吹き荒れる。1980年代中旬にシカゴやデトロイトで生まれたシンセとリズムボックスで作られたダンスミュージックは、ディスコをクラブへと変貌させていく。New Orderを擁したFactory Recordsのチームにとってエレクトリックなダンスミュージックは非常に刺激的だったに違いない。また同時期にポール・オークンフォールドやダニー・ランプリングなどロンドンを拠点としていたDJ達がイビサのパーティーを体験し、初期のアシッドハウスをイギリスに持ち帰る。
当時のイビサのクラブ、アムネシアでDJがロックとハウスやイタロディスコをミックスするスタイルは後にバレアリックと呼ばれる。すぐにハシエンダでもマイク・ピッカリングがイビサスタイルのパーティーをスタートさせ、アシッドハウスは新しいサウンドとして全国に広がり、空前のレイヴムーブメントが始まる。その過熱ぶりは僕らの想像を絶するものだった。
多くの論評ではアシッドハウスの流行は合成麻薬であるエクスタシーが主な原因とされる。確かにエクスタシーが大きなきっかけだったことは間違いないが、それ以上に大きな要因は人々の意識だったと思う。経済的にも苦しんだ1970年代末から1980年代のイギリスの若者たちは、厳しい現実に押し潰されるよりも明るい未来を信じることを選んだのではないだろうか。特に1970年代に10代でパンクに憧れながら間に合わなかった世代だったThe Stone RosesやHappy Mondaysのメンバーたちは、パンクのDIY精神を持ちながら自分たちのメッセージを歌い始める。そのタイミングで起きたアシッドハウスの嵐は音楽の現場やパーティーを一変させた。The Stone Rosesの”She Bangs The Drum”で歌われる<未来は僕のもの>という一節がそれを何よりも物語っている、心の底から希望を歌う時が来たのである。