「浮き足立ったっていいし、先輩として僕らがなんとかするから、あんたらは一旦人生楽しんで!」と、現代を生きる若者世代にエールを贈るのは、アーティストのSIRUP。R&BやHip Hop、Neo Soulをルーツに、自分自身の心情、そして社会に対してまっすぐなメッセージを発信し続ける彼が、今回FRISKが企画する、新たなチャレンジをしようとしているフレッシャーを応援するプロジェクト『#あの頃のジブンに届けたいコトバ』に参加し、音楽を始めた頃の自分に向けて手紙を執筆した。
そこにはこれまでに過ごした人生のなかで直面した苦悩や葛藤の数々、多くの変化とともに成長してきた現在、私たちが生きるべき理想の社会のかたちについて赤裸々に綴られている。手紙の中では語りきれなかった、彼のこれまでの人生を振り返りながら、どのように多くの苦悩や葛藤と向き合ってきたのか、不安定な社会のなかで生きる人々に向けてのメッセージを伺った。そこには、これからの未来や自分の選択に希望と自信を持ち、前へと進むためのヒントが散りばめられていた。
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希望が持てなかった小学生時代を乗り越えて
ーSIRUPさんは、現在数多くの音楽フェスやイベントに出演されたり、国内外のアーティストやブランドとコラボレーションを行うなど、活動の幅を常に拡張し続けるアーティストの1人という印象です。また、SNSやステージ上で社会的なメッセージを発信するなど、SIRUPさんのメッセージでもある「誰も取り残さない」を体現されています。今のSIRUPさんにたどり着くまでに、多くの経験や変化があったと思うのですが、本格的に音楽活動を始める前はどのようなことに希望を感じたり、葛藤したりしていましたか?
SIRUP:物心つくのがすごく早くて、5歳ぐらいからめっちゃ自我が強かったんですよ。それもあって、周囲のことをよく見ていたなと思います。小学校6年生の頃が一番人生に絶望していたなって感じるんですけど、当時『あずきちゃん』(※)が流行っていて、小学校内で付き合うか付き合わないかみたいなものをみんな真似していたんです。そういった周りの変化や、いろんなことが重なって、当時は将来に希望を持てなくて。
ただ、もともと自分に根拠のない自信がめちゃくちゃあるタイプだったので、持ち前のエネルギーとコミュニケーション力で、なんとかなるだろうとは思っていて。なので、高校生のときには吹奏楽部の部長として、周囲や社会の悪しき習慣や規範を壊していこうと、「やることだけやれば、後は楽しくやればいい」という環境を作ったりしていたんです。そういった自信はずっとあったけど、20歳になってクラブで歌い出したりした頃からは、音楽業界のシリアスな問題を現実的に感じて葛藤することが増えていきました。
※少女漫画雑誌『なかよし』にて1992年8月号から1997年4月号まで連載された漫画。原作・秋元康、作画・木村千歌。

ラップと歌を自由に行き来するボーカルスタイルと、自身のルーツであるネオソウルやR&BにゴスペルとHIPHOPを融合した、ジャンルにとらわれず洗練されたサウンドで誰もがFEELGOODとなれる音楽を発信している。
ー周囲の変化や不条理に感じる環境のなかで、どうして自信を強く持ち続けられたと感じますか?
SIRUP:末っ子で結構甘やかしてもらったところもあるし、もともと持っている性格や社交性も大きかったと思います。小学生の頃に、クラスのダンスの振り付けを考えたり、描いた絵が大きな賞に選ばれたり、自信につながる成功体験もありましたね。
ー誰しもが大きさは関係なく成功体験をしていると思うのですが、SIRUPさんは、何を持って成功と判断しますか?
SIRUP:自分の基準でしか話せないけど、何かを得た感覚や、心が少し明るくなったり、気持ちいいと感じられることが成功かもしれない。例えば、今でもたまに絵を描くんですけど、こだわらず赴くままに絵を描くと気持ちがスッキリするし、描き終わって一つのアウトプットとして残るのも成功体験として捉えていて。もっと日常的なことでいうと、洗濯を2回も回せたことだって成功体験だし、それでもってまだお昼とかだとさらに成功体験だって感じる。何もうまくいかなくても、何かをやったことが必ず前進につながるから、やらないよりもやる方がいい。そのときに何かが残ったり、学びがあれば、それは成功体験だと思っています。
僕は⼩さい頃から⾃分の世界をすごく⼤事にする⼦供だったと思う。⺟⼦家庭で、1⼈で家にいる時間も多かったから、一人で出来る遊びも好きだった。
小学生ぐらいからなんとなく歌うのは好きだったけど、友達や家族に褒めてもらったりして気がつけば16歳ぐらいの時に、もっと人前で歌ってみたいと思い出した。
そこから実際にステージに立ったのは20歳の頃ぐらいで、地元の小さなクラブで歌った。今でもたまにそのときの記憶がフラッシュバックする。
手紙の序文。SIRUP直筆の手紙全文は4月11日(木)から下北沢BONUS TRACKで開催されるFRISK『あの頃のジブンに届けたいコトバ展』で展示される(詳細はこちら)
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生死を感じて決意した、「好きなことをやって生きていたい」
ーそこからクラブで歌を歌い出すまでにも、人生の選択をするタイミングがいくつもあったと思います。周囲の人たちが就職を選択をするなかで、SIRUPさんにはそういった選択肢はありましたか?
SIRUP:高校生ぐらいまでは、就職しないといけないのかなって漠然と思っていました。本当は音楽の大学に入りたかったけど、学費が高くて行けなくて、家の近所の大学に通ったんです。母子家庭という環境で、母も大学までは行ってほしいとサポートしてくれたので、そこまでは頑張ろうと思って。でも同時に音楽を絶対にやるぞっていう思いも強かった。
就職活動を意識する時期は、一度就職した方がいい歌を書けるんじゃないかって考えたりもしたんですけど、ミュージシャンとして少しずつステップアップしている体感があったのと、そのタイミングで大きな原付自動車事故にあってしまって。そのときに生死を感じて、どうせなら好きなことをやって生きていたいって強く思うようになりました。それで決意が固まって、結局就職活動は一社も受けなかったです。

ーSIRUPさんが就職活動をしないという選択をする頃、周囲には就職を選択する人もいたと思います。そうしたキャリアの進め方を、当時はどのように見ていましたか?
SIRUP:周りの選択と自分の選択の違いを気にはしていました。不安にもなるし、気持ちは持っていかれるけど、結局選択を変えることはしないっていう、根本の性格があるんです。不安になったり、迷ったりはするけど、その感情を無かったことにせず、それすらも吸収してアウトプットに利用していました。不安はあったけど、もうやるしかないって思っていたし、そのほうが僕にとっては絶対楽しいっていうのは分かっていたので。
ー「自分のやりたいことをやる方が絶対楽しい」と思えたのは、誰かロールモデルのような人がいたからなのでしょうか?
SIRUP:小さい頃、お兄ちゃんの後ろをずっとついてまわっていたんですけど、ある時からお兄ちゃんが僕のことを撒きだして(笑)、そこからは公園にいる歳上の人たちに声をかけて遊ぶようになったんです。そうやって小さい頃から一つのコミュニティに属さず、いろんな人の価値観を吸収したり、いろんな選択肢を持っている人生の先輩たちと出会えたことが一番大きいですね。

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年齢の呪縛も多くの規範も、一つの価値観に縛られてできているもの
ー今回「あの頃のジブンに届けたいコトバ」をテーマに、昔の自分へ手紙を書いていただきましたが、そこでは「25歳で自分の理想の状況じゃなければ、歌をやめようと思っていた」と書かれていました。なぜ25歳という区切りをつけ、どのような状況を理想と捉えていましたか?
もちろん楽しい事だけじゃなかったし、⾟い事も同じぐらいあった。 何度も歌を仕事にすることを諦めかけた。
今思えば年齢なんて関係ないのに、25歳で⾃分の理想の状況じゃなければやめよう、 別の仕事をしよう。そんな事を思いながら先の⾒えない不安を抱えながら過ごしている時期もあった。
SIRUPの手紙抜粋(「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」presented by FRISK より)
SIRUP:20歳ぐらいの僕にとって、25歳って「超大人」というイメージがあって。母に早く恩返しをしたかったし、大学卒業して3年経った25歳にはみんなと同じように、理想の状況に近づいていたいと考えていたんです。当時は「テレビに出ている・みんなが知ってる」ミュージシャンになるっていう、今とは逆のことを理想として掲げていました。共通しているのは、音楽だけでご飯を食べられたらいいなってくらいで。

ー確かに20歳のときに25歳の自分を考えると、「超大人」というイメージはあるかもしれませんね。理想の状況を描いていたなかで、実際に25歳を迎えたときはどうでしたか?
SIRUP:全然、「超子供」でしたね。仲間から怒られることもしょっちゅうだったし、まだまだわがままでした(笑)。ただ、自分のなかでは25歳、30歳という区切りはある種のターニングポイントにはなっていて。一回区切りとして、頑張ってCDを作って、当時はまだ目新しかったデジタルリリースをしたら、ネット上で聴けるのもあって、東京のライブに呼んでもらえるようになったんです。理想の状況にたどり着いたわけじゃないけど、前進を感じられて、もうちょっと頑張っていこうと思えたんですよね。
ーある種自分で設けた25歳という区切りではあるから、そのタイミングで何か新しいことをしてみようという感覚だったのかもしれないですね。
SIRUP:今思い返すとそうだったのかなって。やっぱり焦りはあって、なかなか音楽だけでご飯を食べれなかったし、バイトもいっぱいしないといけなかった。それとその頃、大阪で風営法による極端なクラブの弾圧があって、毎週パンパンになっていたクラブが一気に潰されてしまったんです(※)。そうした社会からの無意味な弾圧を目の当たりにして、何かを残さないといけない、続けないといけないという焦りも感じていました。それが25歳という目標地点に到達する直前だったので、何か形にしてみたい、やっていないことをやってからこれからを考えたいなと思っていましたね。
※一例として2012年4月の大阪クラブNOONの摘発が有名。2016年に最高裁で無罪が確定。同年には「ダンスをめぐる国民の意識の変化等を踏まえ」(内閣府)、風営法が大幅に改正された。
ー年齢に応じた目標設定をすることで、活動の原動力になることもある一方で、それが焦りや苦しみを生む呪縛にもなり得ると思います。SIRUPさんは年齢による呪縛とどのように向き合ってきましたか?
SIRUP:25歳までは、年齢の呪縛がすごくあったなと思います。でもその頃から少しずつ、周りからの評価にフォーカスするのをやめ始めたんです。誰かが言う、「社会的 / 年齢的にこうするべき」みたいなことに合わせて、自分のやりたいことの優先順位を変えてしまうと、やりたいことのための努力もできないし、結果にも繋がりにくい。そう気づきだしたタイミングで、不安はあるけど、自分の望まない「こうするべき」とされている選択を選ばなくなっていきました。

ー年齢を重ねるごとに、自分の望みや選択肢とは裏腹に「結婚」や「年収」といったプレッシャーを社会や周囲からかけられることもあると思います。しかしそのなかで自分のやりたいことを選択したり、自分の幸せのかたちを模索し続けられたのは、やはり幼い頃からいろんな人たちのいろんな選択を見てきた影響もあるのかなと思いました。
SIRUP:人とのコミュニケーションから多くのものを得ているなと、どう振り返っても感じますね。その時間が自分の幸せに繋がっているし、ストレス発散にもなっているし。年齢の呪縛も多くの規範も、一つの価値観に縛られてできているものだから、いろんな人とコミュニケーションを取ることで、いろんな価値観を得ることができる。そうすることで、自分の価値観は、自分で決めていいんだと言うことがどんどん分かってくるなと思っています。
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30歳でSIRUPに。ターニングポイントになった出来事
ー手紙には「現マネージャーと今の事務所に入ったことが、アーティスト活動のなかで一番大きなターニングポイントになった」と書かれていましたが、事務所に入ったことでどのような変化がありましたか?
「もうこれ以上ダメかもしれない」と⼼が折れかけていた頃。今の事務所からひょんなことがきっかけで声がかかり、その当時からサポートしていてくれていた現マネージャーと⼀緒に⼊ったことが、これまでのアーティスト活動の中で⼀番大きなターニングポイントになった。
SIRUPの手紙抜粋(「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」presented by FRISK より)
SIRUP:事務所に入るまでは、ライブの出演費を自分で交渉したり、バイトとライブで稼いだお金をどう生活費と制作費に充てるか1人で考えていたけど、事務所に入ってからはお金の部分が大きく変わったなと思います。もちろん当時は新人なので、事務所からお金がたくさん出るわけじゃなかったけど、僕がやりたいことをやらせてくれる場所だったので、本当にやりたいことができるようになったんです。活動をもっと大きくしたいという目的もより明確になったし、僕が持っていないコネクションを事務所は既に持っていたおかげで、いろんな可能性が広がったなと思います。

SIRUP:人間1人だけの行動力じゃ到達できないものでも、大きなコミュニティや会社にいることでできることがある。でもそれはあくまで、自分の人生の目的を達成するためのツールだとも思っていて。これはミュージシャンや表現者だけでなく、どこかの会社に就職する人たちにとっても、自分の夢や目標を叶えるための通り道だという意識を持つことが大事かなと思います。
―そして30歳のとき、アーティスト名をSIRUPに変えたことが大きな転機となりました。
初めてレーベルやレコード会社の⼈と⼀緒に仕事することになり、内⼼は新たな体制ができることに期待しながらも、これまでの道のりで何度も挫折を味わってきていたので、⾊んな⼈の⼒を借りてでも今の状況が良くならなければ本当にやめようと思っていた。
それが30 歳の時。
最後のチャンスだ!! 後悔しないように全力で本当に好きな音楽を作った。そして心機一転、SIRUPへと改名した。
SIRUPの手紙抜粋(「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」presented by FRISK より)
SIRUP:そうですね。メジャーレコード会社から声をかけていただいて、それがきっかけでアーティスト名をSIRUPに変えたんですけど、その頃って実は、もう好きな歌を歌えなくても、歌が仕事にできるならそれでいいやぐらいに思っていたんです。だけどその時プロデューサーに、「自信作を出しほしい。一番やりたかったことをやってください」って言ってもらって、その言葉で自分の気持ちを切り替えることができて。これが夢に繋がらないんだったら音楽やめてもいいと思えるような作品作ろうって、作品づくりにも変化が出たんです。
ーそこからSIRUPとして活動の幅が広がると共に、楽曲やステージ、SNSで発信するメッセージがここ数年でより明確になっている印象です。自身の心情や社会に対する眼差しはどのように変化し、現在に至りましたか?
SIRUP:うまく社会と付き合っていくのはもちろん大事だけど、自分が伝えたいSIRUPを表現できないんだったら、やらないほうがいいと思っていて。その感覚がより強くなったのは、コロナ禍で社会が大きく変わったタイミングでした。SIRUPとしてデビューして2年ぐらい、何万人の前で歌うところまで来た頃だったんですけど、僕は音楽業界が政治によってすごく蔑ろにされたと感じたんです。
もともと音楽業界にも多くの問題があると強く感じていたけど、結局僕たちが生きづらさを感じるいろんな要因が政治にあることが自分のなかで明確になって、だんだん行動やメッセージが変わってきたという流れでしたね。
