音楽家・高木正勝の前後編でお届けするロングインタビュー前編では、2024年に公開された映画『違国日記』と『キッチンから花束を』の音楽制作話から、誰かと一緒に作品を作ることについての作家論を受け取った。
後編では、未公開の新作映画で手掛けた音楽にも関係があり、幼少期から興味があった仏教について、そして自身のプロジェクト「Marginalia」にも通じる、他者を受け入れることについて話を聞いた。そうやって作品の話をしていると、いつのまにか人生論に辿りつくから不思議だ。
心を開いて仲良くならなくても、何かもう1つ、自分がこの状況でも楽しめる視点は絶対ある -高木正勝
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音楽家 / 映像作家。1979年生まれ、京都府出身、兵庫県在住。長く親しんでいるピアノを奏でた音楽、世界を旅しながら撮影した“動く絵画“のような映像、両方を手掛ける。NHK連続テレビ小説『おかえりモネ』、映画『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』『未来のミライ』『違国日記』などの音楽を手がける。近作は、山村にある自宅の窓を開け自然を招き入れたピアノ曲集『マージナリア』、エッセイ集『こといづ』。www.takagimasakatsu.com
仏教に向き合った、未公開映画の音楽
ー2024年に公開された映画『違国日記』と『キッチンから花束を』に加えて、もう一つ作品を録り終わったと伺いました。2024年7月に出演された『FESTIVAL FRUEZINHO 2024』のときに「ずっとやりたかった音楽だった」と仰っていましたが、どんな映画なのでしょうか。
高木:『光る川』という映画です。表には出ていませんが、裏テーマに仏教があって、もうこれは絶対にやりたいと。僕の実家はお寺なんです。ひいおじいさんが岐阜から京都にやってきてお寺を始めたから、幼少期から仏教がずっと身近にあって。でも多くの人と同じで、「南無阿弥陀仏ってそもそも何?」「仏さまって誰?」と思っていました。これまで仏教そのものとは全然向き合ってこなかった。

―どうしてでしょうか。
高木:親と同じ道には進みたくない、みたいなことってあるじゃないですか。やっていることはいいと思うけれど、そのまま継ぎたくはない。不思議ですけれど、そんな感じで離れてしまうものなんですね。
だから今回のオファーをいただいた時、はじめてしっかり向き合えるきっかけになると思ったんです。同時に、最近兄のお嫁さんが、急にお寺を継ぎたいと言い出して。驚いたけれど、これまでいろんな人の節目の話を聞いてきた中で、最高にいいなと思ったんですね。それも僕の中で仏教へのスイッチが入ったきっかけでした。それからは仏教の本を読んだりする中で、自分なりにゆっくり理解が進みました。「南無阿弥陀仏」って唱えますか?
ー自分で唱えたことはないです。お葬式で聞く、くらいですね。
高木:意味わかります?
ーいや、あまりわかってないです。「仏さま」みたいな感じですか?
高木:そう思いますよね。僕も同じように思ってました。漢字で書かれていますが、元々はインドで唱えられていた音なんですね。サンスクリット語で南無は「このうえない」「他にない」という最上級の意味で、阿弥陀仏は「すんごい光」という意味らしいんですよ。だから意味は「この上なくすんごい光」。いいイメージですよね。亡くなった方やお墓を前にしてそれを唱えていたんだって(笑)。

ー全然「仏さま」じゃないですね。
高木:そう、人のイメージじゃないんですね。すごく純粋なんですね。亡くなった人のお墓の前で「すんごい光、すんごい光」って言っている。それっていいな、分かると思って、知れば知るほど、今まで自分が興味があったり、音楽でやってきたことだったりと、そんなに違わないと思いました。
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お経を唱えていて気がついた、仏教の教え
―仏教がより身近になってきたんですね。
高木:先日、12年ぐらい飼っていた猫を看取ったんです。その時の様子が、妻の出産のときとそっくりで。死と出産の様子が似すぎていて。いまこっちで息を引き取って、どこかでそのまま生まれたんじゃないかと感じたんです。ものすごく悲しかったけれど、同時にそういうものかもしれないと感じて救われた気がしました。猫を庭に埋めて弔うときに、やっぱり手を合わせるし、話しかけるんだけれど、今回はその映画の仕事もあったから、自分でもお経を唱えてみようかなって思ったんです。

高木:お経を唱えるといっても、唱え方を知らないので、映画のために作ったメロディーに好きなお経の言葉を当てて歌ってみたんです。そんな風に手を合わせて短いお経を毎日歌っていたら、徐々に「ブッタって誰?」みたいな疑問が消えていって。「自分がわかったという境地に入ってしまったら、もう後戻りできなくて、いろんな困っている人をとにかく救うんだって思いで、よし今日もあらためて生きていきますよ」っていうこと? みたいに腑に落ちたんですね。
ー唱えているうちにですか?
高木:そうです。今までは漠然と「ブッタというすごい人について行こう」みたいな内容なのかなと思っていたんですけれど、詠めば詠むほど、いや、そうは言っていないと。ただただ、自分自身の問題で、自分が向かいたいという気持ちに自然となってくる。
ーその映画音楽にもそういった経験が関係してきたと。
高木:そうですね。おじいちゃんが昔、ミャンマーとか仏教にゆかりのある地域の、現地のお経を聞かせてくれたんですけれど、その中に歌になっているものがあって。おじいちゃんも「いいやろ」って気に入ってました。いま僕が住んでいる村も「御詠歌」といって、人が亡くなったりするとみんなで歌うんですよ。ちょっと賛美歌っぽい。そんな経験が重なって、お経そのものは入れていませんが、お経にメロディーをつけるような感覚でサントラの音楽を作れました。映画音楽の仕事ならでは、と思います。自分だけのプロジェクトでは、なかなか辿り着けません。自分の祖先とようやく繋がれた。ずっとやりたかったっていうのは、そういう意味です。

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好きじゃない仕事にも、参加する理由
ー少しお話しが戻りますが、小さい頃は、おじいさんのやっていることをどのように捉えてらっしゃったんですか。
高木:法事とかあるたびにお坊さんが40人ぐらい集まるんですよ。子どもながらに苦手だなと感じるものもあったのですが。いいな、すごいなと感じるものもあって。
―どんな部分だったのでしょうか。
高木:大人数で声を出すので毎回コンサートみたいになるんですね。40人が集まってお経を唱えたときの迫力というか……みんな同じメロディーをそれぞれの声の高さで唱えるんです。西洋音楽だったら、ラの音みたいに絶対的な基準があって、その中で音を外すと音痴になるじゃないですか。だけど40人がみんなそれぞれの生まれ持った音の高さでひとりで練習してきた通りに歌う。もちろん40人集まった人、それぞれと影響し合いながら。それは整理された音の重なりじゃなくて、山で聞く鳥や虫たちの歌の重ねと同じ豊かさを感じます。
その音を僕も楽しんでいて、その間だけ、極楽がここにあるんじゃないかと感じるような。ぼんぼりが回っていて、キンキラに飾られていて……お経がうまくいっている間だけ極楽っぽくなっているような時間ですね。それが「いいぞ」って、自分もこういうことしたいなと思っていました。
ーそれをストレートにお寺を継ぐということではない方向で実現したいと思われたんですね。
高木:そうですね。お寺は人が亡くなったら行く場所ですが、困ったことがあったら相談しに行ける場所でもあって、ずっと門が誰かに開いているのもいいなと思って。僕も形を変えて、そういうことをしたいなと。だから映画音楽をやろうよって誘われるときも、わざわざ公園みたいにしたくなるんだと思います。(※)
※編注:本インタビューの前編で高木は「映画はみんなで公園を作るみたいなもの」と語っていた。

ーお寺も公園も誰にでも開かれている場所ですね。
高木:そうですね。だから自分が関わるときは何でも公園を作るつもりで参加する。個人がやりたいことよりも、それぞれ生まれも育ちも違う人たちが集まっている状況を使って、極楽みたいなものが垣間見えたら。ことが終わっても、元気になって、次の1日を始められるみたいな。
だから時には僕が得意そうじゃない仕事も頼んでもらえたりするんですけど(笑)、僕が起こしたいことは一緒なので、得意じゃないことでもできるかなって思っています。
―好きかどうかは仕事を受けるかどうかにはそこまで影響しないんですね。
高木:好きな人ばかりが集まって作るのは、楽しいと思いますが、必ずしも仕事でやらなくてもいいかなって思います。やりたいことが毎日いっぱいあるので、うーん、これをやるのかって悩みますけれど、やると決めたら心を開いて全部受け止めたいですね。それでこちらの素直な思いも届けて、最後に忘れていた扉が開くのは、自宅で勝手にやっている「Marginalia」も、映画音楽も一緒だと思っていて。多分僕はこのやり方しかできないのかなと。
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どんな状況でも楽しめる視点は絶対ある
ー「Marginalia」は高木さんがご自宅の窓を開けて、入ってきた自然の音を受けて、そこに参加するようにピアノを弾くプロジェクトですよね。高木さんの音楽を聴いていて、どんな音が入ってきても、一つの幸せな時間芸術が作られている理由が、お話を伺ってそういうことか、と腑に落ちました。
高木:「Marginalia」の録音はすごく特別な時間なんですよ。いくつかの状況が揃わないと実現しない。ひとつは、鳥や虫が歌っていたり、雷が鳴っていたり、そういう外の音に対して、「いいな。素晴らしいな」と感覚が開いてないと始まらない。忙しかったり心配事があったりすると、虹が架かっていても気付けなかったりするじゃないですか。だから心が健やかな時しか、まず無理なんです。そういう自然の音に対して心を開いていて、そこに自分もピアノを演奏して参加するのですが、ここもやっぱり「わあ、ピアノが弾きたい!」って強烈な想いが湧いてないと何も弾けないんですね。どういう時にほんとうに弾きたくなるかというと、心や魂が動いていて、メロディーや新しい音の気配がふわっとやって来た時なんです。作曲がはじまる瞬間ですね。だから、外の自然と、内なる自分のふたつが、ピタッっと揃ってようやく「Marginalia」の録音ができるので、とても貴重で。毎日録音したいと心がけていても、月に2回も録れたらラッキーなんです。

ーはい。
高木:たとえば夏は緑が青々としているじゃないですか。これが冬になったらすっかり消える。僕らはそれを見て、植物はそんなつもりは全くないでしょうけれど、勝手に「新しい季節が来た」って思うじゃないですか。もの作りをしている目線から見ると「いろんなものが春を作ってくれている」なと感じるんです。だから、自然の営みを見ているだけじゃなくて、自分も参加して一緒に季節を作りたいなと。
どんなことが起これば、より良い春が来年来るだろう、という視点に立って、音を奏でる。もっと鳥がたくさんやって来たらいいなとか、新しい生き物の歌が増えればいいなとか。実際に田んぼを作ったりすると、蛙がたくさん生まれて、それまでになかった大合唱が毎日起こるようになりましたが、ピアノを弾くことで同じようなことが始まらないかなと。鳥や虫たちが歌うのは、他にも理由があるでしょうが、オスがメスに出会うために歌っているので、歌えば歌うほど夫婦ができて、子どもが増える。歌に満ちている場所は、命に満ちている。だから水場があるみたいに、たくさん歌いたくなるような環境を用意するように、ピアノの音が鳴ることで、彼らももっと歌いたくなるような、そんな演奏ができないだろうかと。逆に自分勝手な間違ったことをすると、鳥からすると、「あのピアノ弾き、こっちの歌を全く聞いてないな。歌いにくいな」となって、どこかに飛んでいってしまって、もう何も起こらない。人間の社会も同じじゃないかなと思います。
ー普段いろんな人と関わる中で、人と衝突したり、嫌だなと思うことが読者の方もあると思いますし、私もあるので助言をいただきたいと思っていましたが、今仰っていた視点は人と関わる上で参考になると思いました。
高木:そうですね。見る方向が一緒になったらいいだけじゃないですか。本当は。
ー同じ気持ちで同じものに関わってなくても、同じ方向を見て、同じものに関わっていればいい。
高木:それで他人が一緒に作ってくれるものが、自分の趣味に合わないこともあるけれど、それはそういうこともある、って。それぞれ違う考え方を持っていても、何か1つ、皆がこの状況でも楽しめる視点は絶対にある。「Marginalia」で窓の外から入ってくる音と同じで、受け入れなきゃ進めない状況で、受け入れたからには何も粗末にはしないと決めた途端に、あらゆるものを好きになった方が自分も楽しい。そう思えたら、どうやったら好きになれるだろうってようやく探し始めるじゃないですか。そこでいい気がするんですけどね。
ー「絶対ある」というのが大事ですね。
高木:そこは何回トライしてもいい。たとえ相手から壮絶なる拒絶があった場合も、こちらは閉じなくていいと思うんですよ。閉じたらおしまいと思って、相手が受け入れるかどうかは関係なしに付き合ったらいいと思うんです。
ーこっちはいけるよ! って。
高木:はい。それで人生を進めたらいいんだと思いますね。自分は新しい道を見つける方向に進みたい。その道が、今までにはなかった、苦しみ抜いただけあると思える道だったりして、簡単じゃないからやりがいもあるし、そんな未来にたどり着いたら、何もかも感謝に変わっていく。
僕だって閉じる時は閉じていますよ。例えば田舎に暮らしていると誰でも家に入ってきて(笑)、それが最初は面白かったのですが、子供が生まれたりコロナが重なったりで門を作ったんですよ。そうすると自分の敷地全部が家みたいになるので、安心はするけど、なにかが狭くなるんですね。門を開けていれば、村全体が家なんですよ。だから本当は開けていたい。いまは、一度閉めてしまったものをどうやったら開けていけるか、そこにチャレンジし始めていて、もう始まっているのでワクワクしています。変わりますよー。

高木正勝『マージナリアVI』

オリジナル発売日:2024年11月27日
Blu-spec CD2価格(税込):¥3,300
LPレコード<完全生産限定盤>:¥5,720