長谷川白紙が約4年8ヶ月ぶりのフルアルバム『魔法学校』を7月24日(水)にリリースした。
アメリカのレーベルBrainfeederとの契約後、初めてのアルバムとしても注目される同作。そこに収録されているのは、まさに「異形の音楽」。混乱、恐怖、快楽……様々な要素をミックスし、カオスを生み出す錬金術師のような作家・長谷川白紙は、『魔法学校』で私たちをポップスの外側へ連れ出していく。
電子音楽シーンに精通するDJ / ライターの松島広人(NordOst)がレビュー。
INDEX
約4年8ヶ月ぶりのフルアルバムが与える混乱、恐怖、快楽
アルバムを聴き込むにあたって最初のこと。終盤に差し掛かり、不意に合成音声で「キャッチミー、イフユーキャン」と告げられたときにハッと衝撃が走った。ゾッと恐怖もしたけど、続く最後の曲を聴き終えてフッと笑いも込み上げた。まんまと長谷川白紙『魔法学校』の持つ魔力にとらわれてしまったわけだ。
上述したフレーズと同名の映画作品も存在するように、この言葉は英語圏ではごく一般的なもののようで、どうやら鬼ごっこの「鬼さんこちら」と同じような意味を持つらしい。「鬼さんこちら」というのは知っての通り世界一無邪気な挑発行為で、それは「わたしを捕まえられるものなら、そうしてみたら?」という誘いでもある。約4年8ヶ月ぶりのフルアルバムとなった本作『魔法学校』にもそうしたイノセントな悪戯心が随所に込められていて、我々聴き手はまんまと乗せられ、ひたすら混乱させられる。快楽とともに。
たとえば前半3曲や6曲目“恐怖の星”などを聴いてみると、BPMがとにかく速い。速いが、その速度はハードコアテクノのような音楽が持つ疾走感や高揚感とは別のベクトルであって、混乱や焦燥感に近い感情を抱かせるものだ。
作品の随所に顔を出しては瞬く間に変容していく多種多様なリズムワークも踊れそうで踊れない……ように思えてブレインダンス的な音楽とも異なる身体性を意識させる作りになっていて、踊れないはずのサウンドに、気づけば踊らされてしまう。非常に魔法的だ。ハイパーポップ、という間もなく死語になるであろう概念が次々とポップスの当たり前を塗り替えていったのが2020年代だが、そうした時代の潮流ともまったく違うところから不意打ちされたような気分になる。何度聴き込んでも何がどうやってこうなっていったのかがさっぱり分からない。
INDEX
謎に満ちたバックボーンを持つ長谷川白紙が、クリシェを破壊していく
そう、分からない。長谷川白紙の音楽的なバックボーンについて、浅学な自分にはそのすべてを解説することは到底できない。いやそもそも、長谷川白紙が具体的にどういったアーティスト、ジャンル、シーン、あるいはプラットフォームから影響を受け、またリファレンスとしているのかは、その一部を推察できはしても全てを完全に把握することは、それこそ本人以外には到底不可能なのではないだろうか。
たとえばジャズとかエレクトロニカ、ブレイクコアやブラジル音楽の影響を受け……などと言ってしまうのは簡単だけど、そうした概念で仮固定すると、本作ひいては長谷川白紙の生み出す音楽には絶対に分からない部分が出てくるはずだ。長谷川白紙はそれほどまでに重層的でミクスチャー、かつハイコンテクストにすべてをマキシマイズしていく錬金術師のような作家であり、なおかつ氏はおそらく日頃インプットした音を水平思考的に別の地点へとワープさせる試みをごく自然に行い続けている。この変換の妙もまた魔法なのだろうと思う。
もちろん曲がりなりにもDJを食い扶持の一部としている僕も、ある程度は能動的に多様な音楽を聴いているつもりだし、水平思考的に異なる音楽から共通項を導き出してフロアに還元する活動を続けているのだけれど、長谷川白紙に関してはとくにその「AをBへと置換する」にあたっての距離が突出してかけ離れているように思える。それはたとえば、“恐怖の星”で一瞬唐突にレイヴホーン(HIPHOPのDJなんかがサンプラーから鳴らす、あのプゥーン! というSE)がかすかに挿入されるような意表の突き方ひとつとっても確信できる。
なぜ長谷川白紙がそこまでして過剰かつ(2024年の現時点では)異形とも捉えられる音像をひたすら希求し続けているのかを想像していくと、それはやはり氏がひたすら枠組みの外側へと脱出し続けようとすることを信条とした音楽家だからだろう。過去のインタビューなどの発言をいくつか振り返ってみると、いずれもクリシェを否定し、新たな可能性を模索し続けていきたいという強い探究心が背後に控えている印象を受ける。
そうしたピュアな欲望は12曲目“外”の一節<外がだいすきだから外に出たいのだ>というリリックからも感じ取れる。このラストナンバーは非常に示唆的で、たとえば<僕の薄気味の悪いクローゼット>とはいったい何を指しているのだろうか、というように、一節を切り取るだけでいくらでも妄想の余地は広がる。『魔法学校』を構成するあらゆる要素を、我々は感動的にも、恐ろしくも解釈できる。もっとも真意は長谷川白紙自身にしか分からないのだけれど。