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恵まれた環境でも悩みはある。苦悩から解放されることができるのか?
不幸な彼らが人生を肯定することは可能なのか。そのヒントは舞台美術にある。高所作業のために登る脚立や、作業現場での保護シートや布を仮止めする養生テープを、本来の機能とは異なる使い方で作った舞台美術。それは脚立や養生テープにとっては、「余計」な使われ方である。

それを人生に置き換えて考えたい。「余計」なものとはなんだろうか。人生において何が余計で何が有用なのかは、万人にとって一様ではない。恵まれた環境にある佐伯ですら自殺したのである。佐伯を追い詰めた一因は、本橋や清水のような、羨望と嫉妬の裏返しとなった批判がネット上に拡散されたことにある。
他者は人知れず多様な悩みを抱えている。その苦悩から解放されるには、人生の正解を強固に決めつけて求めないことだ。自分の人生はこうあらねばならないという理想が強すぎれば、そこから外れた行動が招く結果は、外から強いられた無駄なものに感じられる。
人生には無駄があり、それも含めて今がある。そのように捉えることで、苦労を人生にとって有用なものへと転換できる。そのような「無駄の存在感」というものが、物を別の用途に使った舞台芸術が主張している。道具がむき出しになったシンプルな舞台美術は、橋本の指導教官が評したように、ある意味ではチープで脱力的な一方で、巨大だ。だからこそ、人生を一面的に決めることの息苦しさから解消し、無駄を肯定するような説得力を持った存在としてそこにあった。

またこの舞台美術は、芸術の有用性についても考えさせられる。多くの人にとって、芸術は生きていく上では必要不可欠ではなく、無駄で不必要なものかもしれない。だが物を別の用途として使用した舞台美術と物語によって、無駄の有用性を観客に示唆した。そのことは、物の見方や考え方の違いを多様に見せる、芸術の存在価値そのものに通じている。
実は劇場に入った観客は、客席にそのまま着席するのではなく、舞台裏、垂れ下がった養生テープの裏を通ってから客席に着く導線が敷かれていた。そこにはこの舞台美術を一度、美術作品として観客に観せるというコンセプトがあり、初演から変わらない演出である。そして再演時の当日パンフレットには、池田による以下のあいさつ文が掲載されている。
目の前にある養生テープの裏と舞台は、皆様が既に通ったことにより過去となっています。その過去と、劇をつなぐ時をこれから始めさせていただきます。
ゆうめい10周年全国ツアー公演『養生』当日パンフレットより
この言葉を踏まえてラストシーンを観た私は、大きな示唆を得た。照明が落とされた倉庫で、阿部の一人目の子供の誕生と同じく、橋本は自分の誕生も、クリスマスの日に両親がセックスをしたことがきっかけだと彼に語る。聖なる夜に、性による生の誕生を語るおかしみが滲む。その後、背景の養生テープの後ろに、照明でシルエットになった男が手を振っている。その人物に橋本と阿部が手を振り返して幕となる。なんともセンチメンタルな印象を与える幕切れだが、シルエットの男は川口=清水である。しかし池田の言葉を念頭に置いたならば、このシルエットは橋本と阿部にとっての、ぞれぞれの過去の自分だと私は受け取った。橋本と阿部は過去の自分と対峙し、そして手を振ったのである。
