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『ぬいしゃべ』金子由里奈監督インタビュー 加害性とやさしさのはざまから

2023.4.4

#MOVIE

映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(通称『ぬいしゃべ』)の登場人物たちは、タイトルどおり、ぬいぐるみとしゃべっている。自分が辛いと感じることを人に話したら、話をされた相手が傷ついてしまうかもしれないから。それでも「話さなきゃ」と思うから。だから、ぬいぐるみに語りかける。

一見ごくごくパーソナルに見えるこの営みは、同時に社会的な営みでもある。「ぬいぐるみサークル」に所属する人たちはそれぞれが自分の言葉で、より息がしやすい世界への祈りを、ぬいぐるみに共有しているようなのだ。

本作のメガホンを取ったのは、どんな事柄にも真逆の要素が同居しているのではないかと語り、「ふわふわで軽やかなぬいぐるみを洗ったときの石のような重さが忘れられない」という金子由里奈監督。NiEW初となるインタビューからは、監督本人の、そして『ぬいしゃべ』という作品の、多面的な魅力が浮かびあがるだろう。

小学生で短編集を作成。物語と向き合っていた幼少期

ーまずは金子監督ご自身のお話をうかがえたらと思います。映画を撮り始める前は、小説を書いていたそうですね。物語をつくることにもともと興味があったのでしょうか?

金子:最初は自分の話し相手のような感覚で、物語をつくり始めたんです。家族によると、幼稚園生ぐらいのころから指遊びでお話をつくって、寝る前に1人でしゃべっていたそうで。

そのあと小説を書き始めて、小学生のころには『学校に行く途中』という短編集をつくっていました。

金子由里奈監督
金子由里奈(かねこ ゆりな)
1995年東京生まれ。立命館大学映像学部卒。立命館大学映画部に所属し、これまで多くのMVや映画を制作。自主映画『散歩する植物』(2019)が,第41回ぴあフィルムフェスティバルのアワード作品に入選。長編『眠る虫』はムージックラボ 2019でグランプリを獲得。最新作『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』が2023年4月14日公開。

ー最初から短編集としてまとめているのがすごいですね。『学校に行く途中』はどんな内容だったんですか?

金子:作家の星新一がすごく好きだったので、それを踏襲したような内容でした。

大人になって自分の作品を読み返してみたら、いまの作風と一貫している部分もありましたね。目を閉じることと瞬きの違いについて書かれている作品があったり、棒をひたすら描き続ける絵描きの話があったりして。自分は小さいころから「気づき屋さん」気質だったんだと思いました。

ー世界の機微に目を光らせる「気づき屋さん」、いいですね。そのまま小説家を目指そうとはしなかったんですか?

金子:そうですね。小学校中学年くらいのときに、自分より年上のお姉さんみたいな人と一緒に登下校していた時期があったのですが、その人に「小説家は全員自殺するからやめておけ」という嘘を吹き込まれたんです。でも、当時の自分は真に受けて。そこから一旦、小説は書かなくなりました。

金子由里奈監督

ーそんなことが。その後も表現活動は続けていましたか?

金子:中学、高校ではバスケしかしていなかったですね。疑うことなく毎日朝練に行っていました。「全国行くぞ」みたいな気合いで頑張っていて。弱小チームで実際には地区9位とかでしたけど(笑)。

ー映画とはあまり関わることなく生活していたんですか?

金子:いえ、当時から映画館は場所としてすごく好きでした。父親(映画監督の金子修介)の影響もあると思うのですが、休みの日には映画を観に行くことがすごく自然な環境で育って。

いろいろなものに出会える映画館は自分にとって遊園地みたいで、すごく楽しいと感じていました。そうした背景もあって、大学でサークルを決めるときに、映画部に入ろうと決めたんです。

ーそこから映画をつくり始めたんですね。

金子:最初は自分で撮る気は一切なかったのですが、当時の部長が「誰にでも映画は撮れるから撮ってみな」と言ってくれて。実際に映画を撮って文化祭で上映したときに、お客さんが私のつくった映画で声を出して笑っていたんです。

大学のイベントなので1、2人しかお客さんはいなかったのですが、「自分のつくったものが、誰かの筋肉を動かしてる!」と感動して。それがいまでも映画づくりの原動力になっていると思います。

初めて突きつけられた自身の加害性。原作『ぬいしゃべ』の恐ろしい魅力

ー金子監督の映画は、言葉選びに意識的な印象があります。

金子:そうですね。いままでの作品は「自分のなかの詩」を映像化する感覚でつくっていたので、客観的に見たらわかりづらい台詞も、誰かには詩情を感じてもらえるかもしれないと思って採用していました。

ー新作『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』は大前粟生さんの原作小説を映画化した作品です。自分以外の人が書いた言葉を映画化するにあたって、意識した点や苦労した点はありましたか?

金子:今回はこれまでの作品と違い、登場人物一人ひとりの感情が既に存在していたので、自分の言葉は映画に必要ないと思っていました。

苦労したのは、映画で使いたくない言葉も取り入れなければならなかった点です。例えば、「女は笑ってればいいんだよ」とか。自分では口にしたくない言葉だとしても、登場人物たちにとってはそれが本当の気持ちなので、言わせなければならないと思って。その距離の取り方が難しかったです。

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』予告編 ©映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」
あらすじ:物語の主人公は「恋愛を楽しめないの、僕だけ?」と苦悩し、男らしさ・女らしさのノリが苦手な大学生・七森。大学の「ぬいぐるみサークル」を舞台に、七森と心を通わせる麦戸や彼らを取り巻く人々を描く群像劇

ーそうした葛藤について、誰かと相談する機会はありましたか?

金子:一緒に脚本を担当してくれた兄(金子鈴幸、演劇団体「コンプソンズ」主宰)とは話をしましたね。自分でセリフやキャラクター設定を考えるとどうしても自分の色が強く出てしまうので、そうした役割は兄に任せた部分が大きかったです。

ーもともと、原作小説とはいつごろ出会ったのでしょうか?

金子:作品が発表されて間もないころ、友人に「絶対に好きだと思う」と勧められて知りました。大前さんの小説を読んだのも、それが初めてで。

ー実際に読んでみて、いかがでしたか?

金子:自分自身の加害性みたいなものを、初めて真正面から突きつけられた気がしました。私にとっては何でもない言葉も、ある文脈のなかでとらえたら、誰かを傷つける可能性をはらんでいるんだ、と気がついて。

すべての行動が何かしらの排除や傷つきのうえに成り立っているというのがもはや前提で、その加害性とどう向き合っていくかということをずっと考えていますし、『ぬいしゃべ』の小説は、いまも本棚から自分のことを見つめている気がします。

ーそのうえで監督は「商業での長編デビューをするならこの作品」と『ぬいしゃべ』の映画化を自ら熱望されたそうですね。それはなぜですか?

金子:この小説には読みやすい部分もあるけれど、読んだあと、心にフワーッと棘が広がっていくような怖さもあると思うんです。だからもしも映画化されて、ポップで飲み込みやすい、おさまりのいい作品になったら嫌だなと思って。この作品は絶対に「取り乱している人」が撮らないといけない、取り乱している私が撮ったほうがいいと考えていました。

ー「取り乱している」という言葉は、もしかすると「感情を手放していない」とも言い換えられるかもしれないですね。私は金子監督に「傷ついた気持ちを大切にしている人」という印象を抱いているのですが、そんな監督だからこそ、『ぬいしゃべ』の登場人物一人ひとりの想いを置き去りにせず、表現できたのではないかと思います。

金子:嬉しいです、泣いちゃう。

金子由里奈監督

ぐちゃぐちゃで名前もまだないモヤモヤを活かしたかった。恋愛感情を抱かない主人公・七森をどう描いた?

ー『ぬいしゃべ』の主人公の一人、七森は他者に恋愛感情を抱かない自分に対してコンプレックスを抱いています。役を演じた細田佳央太さんとはどんな言葉を交わしましたか?

金子:そうですね。七森は異性愛規範の、恋愛の物語が溢れる世界で、自分はそこに混ざれない、そのノリに乗れないというモヤモヤを抱えている人で。まだ「アロマンティック(他者に対して恋愛的に惹かれない人)」などという言葉に出会っていない状態の人なのだととらえていました。

この映画では、そんな七森の等身大のモヤモヤを大切にしたいなと。なので、細田さんとも「七森はどんな人か」という話はしましたが、性自認や性的指向に関する知識の共有はそこまでしませんでしたね。

七森(右・細田佳央太)と麦戸(左・駒井蓮)©映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」
七森(右・細田佳央太)と麦戸(左・駒井蓮)©映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」

ー映画の宣伝においても「アロマンティック」などといった言葉は使われていないですよね。

金子:はい。言葉や定義があることによって、もちろん救われる人もいると思うし、社会にマイノリティの存在を意識させる役割もあるので必要性もあると思うのですが、言葉によって型にはめられてしまうこともあり得ると思っていて。

だから、私は七森の状態に名前をつけたくなかったんです。ぐちゃぐちゃでモヤモヤでかたちもない、七森だけの葛藤を存在させることができてよかったと思っています。

すべてのものには異なる要素が同居する。一見異なるものにもつながりがある。金子監督の根源的なまなざし

ー劇中、ぬいぐるみの視点がごく自然のことのように取り入れられていたことも記憶に残っています。過去作の『散歩する植物』(2019年)や『眠る虫』(2020年)でも人間以外の存在に意識を向けてきた金子監督らしい演出だなと。

金子:たしかにぬいぐるみの視点については、取り入れようとしたというより、カメラ割りに「ぬい視点」がある前提で話を進めていましたね。カメラマンの平見優子さんと打ち合わせをしたときも、自然と「『ぬい視点』はどうしようか」という話が出ました。平見さんとは前作の『眠る虫』でもご一緒しているので、共通の認識があったのだと思います。

ー映画にはぬいぐるみを洗うシーンが複数回ありますが、あれらの場面は原作には存在しませんよね。

金子:あれは自分の体験に基づいたアイデアなんです。私の家にはラザロという犬のぬいぐるみがいるのですが、ラザロは出会った当初、すごく汚くて。なので自分で洗ってみたら、ふわふわの塊が、急に石みたいに重くなったんです。そのことが記憶に残っていました。

映画のタイトルにもある「ぬいぐるみとしゃべる」行為も、言葉だけ聞くとふわふわしているイメージですが、じつは気持ちがズドンと落ちるようなニュアンスも含んでいて。ぬいぐるみを洗うシーンで、そうした要素を表現できるのではないかと考えました。また、ぬいぐるみのケアをするシーンを加えたかったのもあります。

ーなるほど。

金子:あとは自分のなかに、すべてのものは表裏一体だし、異なる側面があるという意識があるんです。ふわふわで軽いぬいぐるみが石のように重くなることもそうですし、過去作の『眠る虫』には、夜行バスが「しゅんっ」と小さな虫になって飛んでいくシーンもあります。そのように、一見まったく違うもの同士に思わぬつながりを見出すのが自分は好きで……というか……そういう感覚を「知って」いて(笑)。

ー金子監督のなかにはもとからインストールされていた感覚だったんですね(笑)。

金子:言葉にするのが難しいのですが、どんな物体にも人間にも、真逆の要素が同居していると思うんです。生まれることと死ぬことも、どこかで全部つながっている。そういう感覚も映画で表現したいと考えていました。

金子由里奈監督

ーその感覚につながるかどうかわからないですが、自分は水中のぬいぐるみから気泡が出ている様子を観て、ぬいぐるみを洗う行為はまるで「洗礼」のようだなと思っていました。古い命を捨てて、新しい命を授かるような。

金子:後半、七森が実家から帰ったあとぬいぐるみを洗うシーンでは、まさにそんなことを考えていました。ぬいぐるみだけでなく、七森自身も自分がまとっている嫌な部分を洗い流しているんです。

ぬいぐるみを洗うシーンには、ほかにもさまざまな意図を込めていました。あるシーンでは登場人物たちのささやかな連帯を表現できればと考えていましたし、純粋にぬいぐるみをじっくり観察する時間になればいいなとも思っていましたね。

ぬいぐるみの「おばけちゃん」©映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」
ぬいぐるみの「おばけちゃん」©映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」

声やしゃべり方と同じで、誰も他人のやさしさを真似できない。『ぬいしゃべ』を通じて「やさしさ」を考えた

ー最後に、タイトルにも含まれている「やさしさ」についての話を聞かせてください。自分は『ぬいしゃべ』の小説や映画をとおして、自分が「やさしさ」だと考えている言動や行動は誰かへの押しつけになっていないか? などと、やさしさの定義がますますわからなくなった部分がありました。監督はこの作品と関わる過程で「やさしさ」についてどんなことを考えていましたか?

金子:私は「その人がいる」という事実に、まず頷いてみることがやさしさの始まりだと思っているんです。そこから枝分かれして、いろいろなかたちのやさしさが生まれていくのではないかと考えていて。『ぬいしゃべ』の登場人物で言えば七森や麦戸ちゃんのようにやさしさを表に出す人もいれば、白城のようにすべてを態度に出さずとも、ある状況を引き受けるやさしさを持っている人もいる。

白城(左・新谷ゆづみ)と七森(右)©映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」
白城(左・新谷ゆづみ)と七森(右)©映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」

金子:一人ひとり、喋り方や所作が違うように、ある環境で育ってきたその人にしか体現できないやさしさがあるんだと思います。その人が何年もかけて受け取ってきた、いろいろな種類の思いやりがあるわけで。だから、私も人のやさしさは絶対に真似できないと思うんです。……でも、こうして話していてもわからなくなってきますね。やさしさって何なんでしょう。

ー難しいですよね。ただ、いま監督の言った「環境」という言葉から、ぬいぐるみとしゃべる人たちが集う「ぬいぐるみサークル」のことを連想しました。「ぬいサー」は「落ち込んだままで集まれる場所」として描かれていましたが、自分が落ち込んだ状態を他者と共有できることが、やさしさにつながることもありうるのかな、という予感がして。

金子:そうですね。「弱さ」というのは優劣や比較の上にあり、そんなものがない世界が理想ではありますが、映画化に際してのコメントにも「弱いひとが弱いまま生きられる場所はないのだろうか」と書きました。強くなることが求められる社会ってなんだろうって。

多くの物語には、まず困難があって、それを乗り越えることで成熟していく基本型があるじゃないですか。敵がいて、倒してとか。でも、本当は何も乗り越えなくていいと思うんです。

新自由主義化が進んで、「自分の問題は自分で解決しなきゃいけない」「強くないといけない」という風潮が強い社会になってきていますが、もっとーー「寝ていてもよくない?」と思うんです。

映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」
『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』ポスター ©映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」

ーたしかに最近、「自分の機嫌は自分で取る」といった、自己責任の考え方を善とするムードを感じますし、その考えが「厳しさ」として他者へと向かっている場面も散見しますよね。そんな時代だからこそ『ぬいしゃべ』で「大丈夫じゃないまま」の人々と触れることで、救われる人もいるかもしれません。

金子:そうですね、救うというより映画が「(両手を前に広げて)そのままでいいよ〜」と呼びかける感覚ですかね。それは自分に対して言っていることでもあるんです。

監督という仕事もリーダーシップを発揮し、自分の意見を言える人がなれる職業のように見えますが、自分のように、みんなの力を借りながら映画を撮る人がいてもいいのかなと考えています。『ぬいしゃべ』の現場でも、みんなに迷惑をかけながら、そのことを自分に言い聞かせていました。結果、本当に「ぬいサー」のような現場になって。

ー素敵なエピソードですね。「ぬいサー」に所属するメンバーはなかなか人に言えない思いをぬいぐるみに吐露していましたが、監督はそうした「行き場のない思い」が生まれた際、どのように向き合っていましたか?

金子:私の場合はやっぱり創作だったり言葉だったりに思いを託している気がします。無力感に苛まれるような毎日ですが、アウトプットをすることで何とか、どん底まで落ちずにいられる。そう考えると、創作は自分にとって、世界との接地点なのかもしれません。

金子由里奈監督

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』

2023年4月14日(金)より新宿武蔵野館、渋谷 ホワイト シネクイントほか全国ロードショー
原作:大前粟生「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」(河出書房新社刊)
監督:金子由里奈
脚本:金子鈴幸 金子由里奈
撮影:平見優子
録音:五十嵐猛吏
編集:大川景子
プロデューサー:髭野純
スチール:北田瑞絵
宣伝デザイン:大島依提亜
製作・配給:イハフィルムズ
(2022 | 109分 | 16:9 | ステレオ | カラー| 日本)
©映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」
出演:
細田佳央太
駒井蓮
新谷ゆづみ
細川岳
真魚

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