『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離<ディスタンス>』『スクール・オブ・ロック』のリチャード・リンクレイター監督最新作『ヒットマン』が、9月13日(金)より公開となる。コメディを基調としながら、フィルムノワール、ロマンス、サスペンスなどの要素が入り混じった快作だ。
「殺し屋」を演じる潜入捜査官の物語と、本作の舞台であるニューオーリンズ文化のクロスポイントを、評論家・柴崎祐二が紐解く。連載「その選曲が、映画をつくる」第18回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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冴えない大学講師が、「殺し屋」を演じる潜入捜査官に
2001年、ジャーナリスト / ライターのスキップ・ホランズワースは、ある興味深い人物に関する記事を自身が編集部員を務める『テキサスマンスリー』誌へ寄稿した。その人物の名はゲイリー・ジョンソン。彼は、地元のコミュニティカレッジで心理学を教える傍ら地方検事局で犯罪捜査に関わり、1990年からは潜入捜査官として警察に協力していた人物だ。その任務とは、有能な「殺し屋」に扮して、殺人を依頼する人物たちを逮捕へ導くこと。結果的に、70人以上の「依頼人」が彼の捜査をきっかけに検挙されることになるなど、その辣腕ぶりと擬態の見事さは、今なお様々な逸話とともに語り継がれている。
このゲイリー・ジョンソンの体験に大幅な脚色を施した上で制作された映画が、今回紹介する『ヒットマン』だ。名匠リチャード・リンクレイターが監督・脚本を務め、かねてよりリンクレイター作品で活躍する個性派俳優グレン・パウエルが主演、プロデュースおよび共同脚本を手掛けた。

強いてジャンル分けするならば、「クライムコメディ映画」ということになるのだろうが、幅広い演出技法で知られるリンクレイター監督らしく、一言で説明するのがはばかられるような、実に技巧的で多面的な物語が展開していく。その様は、かつてのコーエン兄弟の作風を思わせるところもあり、他方では、1930年代〜1940年代のハリウッド産スクリューボールコメディ映画を彷彿とさせもする。現在のブロックバスター作品の濁流に辟易しているような少しだけつむじ曲がりのファンをもきっと満足させるであろう、「映画らしい映画」といえそうだ。
あらすじを紹介しよう。舞台は、アメリカ南部のニューオーリンズ。ゲイリー・ジョンソン(グレン・パウエル)は、冴えない心理学講師として地元大学に勤めつつも、趣味の機械いじりが昂じて、警察の捜査を技術面から補佐する副業を行っている。
ある日、「殺し屋」役を担っていた前任の警官が不祥事によって謹慎処分となると、潜入捜査など未経験の民間人であるゲイリーにその役どころが回ってくる。突然の展開に当惑するゲイリーだったが、依頼人への心理学的な関心と、自身の巧みな役作りの甲斐あって、周囲の期待以上に優秀な捜査官として活躍を重ねていく。依頼人の想像する「殺し屋」像に合わせるように、時には冷酷で謎めいた人物を、別の時には汚らしく野卑な人物を、また別のケースでは野心的でギラついた人物を……といった風に、様々なペルソナを演じるようになるのだ。

そんなある日、暴力的な夫との結婚生活に絶望し、その夫を殺害しようと企む女性=マディソン(アドリア・アルホナ)から連絡を受けたゲイリーは、セクシーで頼りがいのある殺し屋=ロンとして彼女に面会する。普段であれば相手から殺しの依頼の言葉を引き出してすみやかに逮捕へと持ち込むゲイリーだが、この日ばかりはマディソンの苦悩に温情の念を抱いて、考え直すように説得し、警察に引き渡すどころかついには彼女を解放してしまう。どうやら二人は、出会った瞬間からお互いに恋心を抱いてしまったのだ。二人は、その後秘密の関係を結ぶことになる。しかし、そんなつかの間の愛の日々の傍らで、事態は思いも寄らない方向へと転っていくのだった……。
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映画を彩るニューオーリンズの音楽
リンクレイターといえば、ロックミュージックを題材とした『スクール・オブ・ロック』(2003年)を筆頭に、毎作において劇中音楽の使い方にも並々ならぬこだわりを貫いてきた監督として知られている。これまでに比べるとやや控えめな使い方に感じられるかもしれないが、今作でも各シーンで多くの既存楽曲が使用されている。具体的なアーティスト名と曲名をいくつか書き出しみよう。
ジェリー・ロール・モートン“New Orleans Bump (Monrovia) ”
バックウィート・ザディコ“Space Zydeco”
ジューン・ガードナー“99 Plus One”
Rob49 ft. Lil Baby“Vulture Island V2”
プロフェッサー・ロングヘア“Big Chief”
アルヴィン・ロビンソン“Down Home Girl”
アラン・トゥーサン“Cast Your Fate To The Wind”
アメリカ音楽に詳しい方ならすぐにピンと来るはずだが、ジャズやリズム&ブルーズ、ザディコ、ラップなど、サウンドの傾向は多岐に及ぶにせよ、ニューオーリンズのアーティストによる楽曲が多く並んでいる。本作の音楽監修を務めたランドール・ポスターは、NMEの取材に応え、次のように述べた。
「この映画の音楽はニューオーリンズ産のもので、楽しい時間を過ごす(=letting the good times roll)( *)という精神が込められています」
「そうしたスピリットは全ての曲の特徴といえます。加えて、ニューオーリンズ特有の語彙を見ると、恋愛は一般的に複雑で、時には二面性があり、時には苛立たしく、時には悲劇的なものとして考えられているのがわかります。しかし、そこには忍耐の精神があるのです。まさにこの映画が描いているように」
https://www.nme.com/news/film/hit-man-soundtrack-every-song-in-film-3758637 より
*この発言は、ニューオーリンズのリズム&ブルース系デュオ、Shirley & Leeによる1956年のヒット曲“Let The Good Times Roll”に掛けているものと思われる。
主に映画の前半部に散りばめられたこれらの曲々は、ポスターの示唆する通り、うきうきと楽しげで、しかし同時にほのかな陰りを帯びたコメディタッチを画面にもたらしており、演出的な効果としても実に巧みな配置がなされているといえる。しかしながら私は、これらニューオーリンズ産音楽の使用に、より根源的なレベルでの作品との結びつきを読み取ってみたい。その結びつきは、ニューオーリンズの歴史と文化を振り返ってみると、よりはっきりと浮かび上がってくるだろう。

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ニューオーリンズ文化の混交性と擬態表現
ニューオーリンズという街は元々、18世紀に建設されたフランス領ルイジアナの首都であり、後にスペインへの譲渡を経て再びフランスの手に戻るが、その数年後にはアメリカがこの地を買い受ける……といった風に、目まぐるしく統治者が交代している。プランテーションのための労働力として西インド諸島やアフリカから連行された黒人奴隷、支配層たる白人とともに、1804年以降は、政情不安に揺れるハイチからの多くの移民者もこの地に流入した。また、法的に奴隷ではない自由黒人も合衆国最大級に多く、フランス白人と黒人のミックス=クレオールも多数存在したし、当然ながらかねてよりこの地に暮らしてきたネイティヴアメリカンの存在もあった。
ニューオーリンズの音楽とはまさに、このような極めて混交的な文化状況の中で育まれていったものだ。こうした背景のもとで、カリブ海諸地域をはじめ、西アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ北部、さらにはネイティヴアメリカンによる各種の伝統的要素が入り交じり、「純粋なニューオーリンズ音楽」とは何かを明示的に指すのが難しい、つまり、その混交ぶりこそが逆説的なアイデンティティとなりうる、きわめてハイブリッドな存在としてのニューオーリンズ音楽の姿が立ち現れてくるのだ。

こうした混交性は、いろいろな野菜やシーフードやチキン、スパイスをごった煮にした同地の伝統料理「ガンボ」に喩えられることもしばしばで、草創期のジャズをはじめ、リズム&ブルースやソウル、ファンク、ケイジャンミュージック、もっと射程を伸ばせば現在のラップに至るまで、あらゆる音楽に見出さされる特徴となっている。
加えて、ある種のペルソナ性=擬態表現の鮮烈さ / 豊穣さという観点からも、ニューオーリンズは特筆すべき文化を育んできた。その代表的な存在が、タンバリンの強烈なリズムとコールアンドレスポンスに彩られた、「マルディグラインディアン」によるパレード音楽だ。
マルディグラとは、ニューオーリンズで2〜3月に開かれるカーニバルのことで、同地の伝統行事として、多くの観客を集めることでも知られている。マルディグラインディアンとは、このカーニバルで豪奢なパレードを行う黒人〜クレオールの一団のことで、その名の通り彼らは、色とりどりのネイティヴアメリカンの衣装を身につけ、ストリートへと繰り出すのだ。

しかし、なぜ彼らは異なる種族であるはずのネイティヴアメリカンの伝統衣装を纏うのだろうか? ともに白人からの被虐者 / 逃亡者であった両者の親交によるとも、逆に、対ネイティブアメリカンの戦闘に従軍した黒人部隊=いわゆる「バッファローソルジャー」によって演じられたのが最初だともいわれ、その由来は定かではない。いずれにせよ、マルディグラインディアンのカーニバルにおいては、自らの文化的なアイデンティティを表明するにあたって、歴史的に固定されたなにがしかの自己像に回帰するのではなく、本来別種と思われているはずの文化的な意匠を借りながらひとつのペルソナを上演するという複層的な擬態表現が、強い誇りをもって実践されているのである。
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擬態は、自らのアイデンティティを再定義していく
映画に話を戻そう。既に見てきた通り本作は、ゲイリーという冴えない人物が、あらゆるタイプの殺し屋のペルソナを演じることでおとり捜査をうまくやりおおせる物語を前半部の中心軸にしている。しかし、おそらくそれよりももっと重要なのは、映画の後半部において、件の擬態表現の積み重ねによっていつしか自らのアイデンティティと相互のペルソナ間の境界線が溶け出し、さらにはそのペルソナこそが新たなアイデンティティとしてゲイリーのうちに吸収されていく樣子が描かれているという点だ。

ゲイリー(およびロン)もマディソンも、ゲイリーが彼の学生たちに講義で教えているように、いつしか新たな自己を発見し、自らのアイデンティティの再定義を実践していくのだ。演じることが演じることでなくなるとき、彼らもまた、誇りと自信をもって、擬態表現の積み重ねを、自らのアイデンティティの獲得(更新)に欠くことのできない尊い行いとして自覚していくのである。
ゲイリーとはいったい誰なのだろうか? かたや、ペルソナたるロンは「本当の自分」とは違うのか? あるいはまた、「本当の」マディソンとは誰なのか? その問いかけの中で繰り返される擬態表現の積み重ねは、いつしか得もいわれぬ高揚感を(こういってよければカーニバル的な祝祭感をも)生み出していき、新たなアイデンティティへの開眼と、ゲイリーとマディソンという本来出会わなかったはずの他者同士の、根源的なレベルでの混じり合いをも促していくのだ(*)。
*ネタバレになってしまうので詳しくは触れないが、映画の後半部からの怒涛の演技合戦には、まさにその「演技」が「フェイク」としての性質を失い、演じるという行為自体とその概念を溶解させていくような高揚感を伴っている。
