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擬態は、自らのアイデンティティを再定義していく
映画に話を戻そう。既に見てきた通り本作は、ゲイリーという冴えない人物が、あらゆるタイプの殺し屋のペルソナを演じることでおとり捜査をうまくやりおおせる物語を前半部の中心軸にしている。しかし、おそらくそれよりももっと重要なのは、映画の後半部において、件の擬態表現の積み重ねによっていつしか自らのアイデンティティと相互のペルソナ間の境界線が溶け出し、さらにはそのペルソナこそが新たなアイデンティティとしてゲイリーのうちに吸収されていく樣子が描かれているという点だ。

ゲイリー(およびロン)もマディソンも、ゲイリーが彼の学生たちに講義で教えているように、いつしか新たな自己を発見し、自らのアイデンティティの再定義を実践していくのだ。演じることが演じることでなくなるとき、彼らもまた、誇りと自信をもって、擬態表現の積み重ねを、自らのアイデンティティの獲得(更新)に欠くことのできない尊い行いとして自覚していくのである。
ゲイリーとはいったい誰なのだろうか? かたや、ペルソナたるロンは「本当の自分」とは違うのか? あるいはまた、「本当の」マディソンとは誰なのか? その問いかけの中で繰り返される擬態表現の積み重ねは、いつしか得もいわれぬ高揚感を(こういってよければカーニバル的な祝祭感をも)生み出していき、新たなアイデンティティへの開眼と、ゲイリーとマディソンという本来出会わなかったはずの他者同士の、根源的なレベルでの混じり合いをも促していくのだ(*)。
*ネタバレになってしまうので詳しくは触れないが、映画の後半部からの怒涛の演技合戦には、まさにその「演技」が「フェイク」としての性質を失い、演じるという行為自体とその概念を溶解させていくような高揚感を伴っている。
