INDEX
時代の合わない選曲がもたらす特殊なリアリティ
もう一つ興味を惹かれるのが、厳密な時代設定を敷くこの映画にあって、ときにそのリアリズムから脱線するような選曲がされていることだ。一つは、1988年に再会したタルラとマチアスがリヴェットの『北の橋』を観るシーンからつづく一連のモンタージュに重ねられるLowの“Slide”で、これは1994年の曲である。更に、先の家族のダンスシーンのあと、「父のレコード」を聴いている場面で流れるフォーク調の曲は、1992年発表のジョン・カニンガム“Hollow Truce”だ。
虚構性を恣意的に忍ばせるようなこうしたポップミュージック使用は、その曲が劇中設定からみて「未来」の曲であるゆえ、およびどちらも映画の終盤近くで使用されているゆえ、登場人物たちの「その先」を示唆する働きをもっているとも分析できるが、より重要な点は、結果的にこの選曲が本作の「真実らしさ」を毀損するどころか、その内部に時間性 / 空間性の揺らぎを蔵しつつも、いつでも必ず「今、ここ」の体験として再生されざるを得ない、時間芸術 / 空間芸術としての映画鑑賞の特殊なリアリティを浮かび上がらせていることにあるはずだ。
追想を通じて気付かされる「今、ここ」
聴く(聞く)という行為および状態は、彼が / 彼女が / 私が / あなたがいつどこにいようとも(たとえその音を「思い出している」場合にすら)、それらの主体はあくまで「今、ここ」に属していること、属していたことから逃れ得ないという事実を暴き出す。本作におけるポップミュージックは、それがソースミュージックである場合は登場人物たちが、アンダースコアである場合は私達鑑賞者や作り手が、いずれにせよ必ずそれぞれの「今、ここ」で誰かが聴く(聞く)ことによって存在付けられている。

また、映画においてポップミュージックは、(それが映画のために新しく書き下ろされたものでない場合は余計に)異なる時間性をその内部や周囲に伴っているため、豊かな二重性を担い、うまくいけば「聴く」という行為をもってその二重性を巧みに包括してくれるものでもある。様々な人々が、様々な思い出や記憶、過去のイメージとともにある特定のポップミュージックを聴いてきたからこそ、映画はその蓄積を自らの虚構とリアリズムの両立のためにしたたかに利用し、果てはそれを映画自体に重ね合わせていく。
その重ね合わせのリアリティは、仮に私達が数々のポップミュージックを実際に聴いた経験がなくとも、いや、ひょっとすると初めて触れるときにこそ、未知の記憶と過去に「今、ここ」で触れるという意味において、より一層艶めきを増す場合もあるのではないか。『午前4時にパリの夜は明ける』は、映画におけるポップミュージック使用の洗練を画しているとともに、追想を通じて「今、ここ」にいる私達自身に気付かせてくれるという意味で、極めて「現在的」な映画といえる。もしかすると、本作が描き出す「喪失」と「再生」は、時々のポップミュージックに宿命的につきまとう、記憶化と再生のサイクルも類比されているのかもしれない。

『午前4時にパリの夜は明ける』のプレイリスト
文中に登場する楽曲は、こちらからお聴きいただけます。
『午前4時にパリの夜は明ける』

2023年4月21日(金)からシネスイッチ銀座、新宿武蔵野館、渋谷シネクイントほか全国順次公開
監督・脚本:ミカエル・アース
出演:シャルロット・ゲンズブール、キト・レイヨン=リシュテル、ノエ・アビタ、メーガン・ノータム、エマニュエル・ベアール
配給:ビターズ・エンド