「あれなら自分でもできそうだ」「ああいう恰好がしてみたい」「あんな舞台に立ってみたい」――お笑い芸人でもYouTuberでもボカロPでも、自分なりの表現を発信したいと欲する時、誰しもがまず、このような希求を抱くのではないだろうか。音楽の領域でもそれは顕著だ。3コードと8ビートさえ弾ければステージに立てたパンクロックも、ターンテーブルとマイクさえあればゲーム感覚でプレイできたヒップホップも、そうだった。パンクなら素肌に革ジャン、ヒップホップならアディダスのジャージ。それまでなら白眼視されていた奇矯なファッションも、新しいもの好きの若者にはヒップに感じられた。
1989年から1990年に放映された『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国』は、『イカ天』と呼ばれたアマチュアバンドのコンテスト番組。出演するバンドは、イロモノやキワモノから実力派、前衛系まで玉石混交だったが、結果的に『NHK紅白歌合戦』に出場した「たま」のような隠れた才能を、いくつもフックアップした。その狂騒は、衝動や情熱をガソリンに突っ走ったお祭り騒ぎだったとも言える。そして、何かをやりたいけど、何をやっていいのか分からない、そう鬱屈した若者が『イカ天』を見てバンドをやり始めた。
後の『けいおん!』『ぼっち・ざ・ろっく!』同様、バンドブームを誘発した『イカ天』について3回の連載で紹介する。第1回は、まず『イカ天』がどんなものだったか振り返ってみたい。
※本連載に大幅加筆を加えた『イカ天とバンドブーム論(仮)』(DU BOOKS)より2025年2月に刊行予定。
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たま、FLYING KIDS、ブランキー、BEGINも輩出した深夜の人気番組『イカ天』
『三宅裕司のテレビいかすバンド天国』(以下、『イカ天』)は、1989年2月11日に始まり、1990年12月29日にその幕を閉じた。TBSの深夜帯に放映され、計846組のバンドが登場。だが、今となっては番組が社会現象にまでなったことを知る人は、少ないかもしれない。『イカ天』は深夜帯としては異例の高視聴率を記録。深夜で3%とれば御の字のところ、平均5.5%を打ち出し、裏番組の『オールナイトフジ』を抜きさる勢いだった。3代目グランドイカ天キング(※)となった「たま」の3週目(1989年11月25日)には、瞬間最高7.9%(午前1時23分頃)という視聴率も記録。ついには外国からの取材も訪れたというから驚きだ。まさに怪物番組である。
※編注:10組(第1回、第2回は12組)のアマチュアバンドが登場し、審査員によってチャレンジャー賞バンドが選ばれる。チャレンジャー賞バンドが前回のチャンピオンバンドと対決して、勝った方がイカ天キングとなる。5週連続でイカ天キングを防衛したバンドはグランドイカ天キングとなった。初代グランドイカ天キングはFLYING KIDS、2代目はBEGIN。
出演するバンドは、イロモノやキワモノから実力派、前衛系まで玉石混交だったが、結果的に、紅白に出場した「たま」のような才能を、いくつもフックアップした。FLYING KIDS、BLANKEY JET CITY、LITTLE CREATURES、BEGIN、マルコシアス・バンプ、等々の才能をも輩出してもいる。
『イカ天』人気の背景はどのようなものだったのか。当時はテレビ局各社が、深夜ならば規制も緩く、視聴率もあまり気にしなくてよいと考え、マニアックな番組を次々と投入していた。当時の『イカ天』が企画 / 放映されたのは、そんな裏事情もあったのだろう。当時活況を呈していた深夜番組では、エロネタが目立ったニュースワイドショー『11PM』、各フィールドから未知の才能を発掘した『冗談画報』や『カノッサの屈辱』など、実験的な番組が数多く放映されている。また、フジテレビ系列の『オールナイトフジ』が人気を集めた。現役女子大生を毎週土曜日の深夜に登場させ、女子大生ブームも巻き起こした番組だ。そうした深夜帯のテレビ番組の興隆という追い風もあって『イカ天』人気は急上昇したのだろう。
番組の司会は、三宅裕司と相原勇。劇団スーパーエキセントリックシアターを率い、ラジオパーソナリティーとして人気だった三宅が選ばれたのは順当だが、当初は大槻ケンヂを推す声もあったという。1980~90年代のバンドブームを象徴する雑誌『BANDやろうぜ』(宝島社)編集長の新井浩志によれば、TBSのスタッフが編集部へやって来て「『BANDやろうぜ』みたいな番組をやりたい」と相談され、大槻を推薦したというのだ。
一方、相原勇は、なかなか芽の出ないないグラビアアイドルであり、『イカ天』出演を最後に実家の広島に戻るはずだった。それが番組に抜擢されるやいなや、一気に人気者となり、念願だったミュージカル『ピーターパン』への出演を果たした。一躍スターダムにのし上っていった彼女の来歴は、いわゆるシンデレラストーリーを体現していたのである。

マルコシアス・バンプは「インディーズ界最後の大物」と呼ばれており、正に満を持しての出演だったし、たまも動員を増やすために迷いに迷った末に出演を決めている。だが、一方で、『イカ天』を最後にあっさり消えていった泡沫バンドも数多く存在した。『イカ天』が後世に残した功績は大きいが、『イカ天』にはそうしたバンドも包摂する、刹那的だからこその煌めきがあったと思う。
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演奏よりインパクト重視のバンドも。玉石混交だった出演者群
実際、出演したのは、メジャーデビューを目指すバンドばかりではなかった。明らかに目立とう精神で応募してきただろうバンドも多く登場した。だが、これらのバンドにも価値と存在意義はあった、というのが筆者の基本姿勢である。というのも、『イカ天』ブームは衝動や情熱に任せて突っ走った若者たちの暴走の記録でもあったと思うからだ。
そして、そのお祭りの象徴と言えるのが、1990年の元旦に日本武道館で行われた『輝く! 日本イカ天大賞』だろう。前日に放映された日本レコード大賞のセットをそのまま使って開催された同番組は、本編の延長線上にありながら、終わらない学園祭のような様相を呈していた。
こうした大騒ぎを否定的に捉える言説があるのも承知している。実際、出演バンドを演奏技術や曲のオリジナリティという物差しで測ると、玉石混交だったのは否めない。コンセプトやアイディア先行でテクニックや楽曲の完成度は二の次、というバンドも多かったは事実だからだ。例えば、スイマーズ。短パンにマント、スイムキャップと水中メガネを装着し、ステージ上をところせましと動きまわる。ドライアイスをプールに見立てて泳ぐというのが、そのコンセプトだった。ある審査員に「史上最低だけどオモシロイ」と評された通り、あまたあるバンドの中でもインパクトの強さでは一頭地を抜いていた。
あるいは、歌舞伎の連獅子そのままの恰好をしたボーカリスト、氏神一番率いるカブキロックス。糸井重里が作詞した沢田研二の“TOKIO”を歌詞を変えて演奏し、ステージで蜘蛛の糸や紙吹雪をまき散らすなど、けれん味たっぷりの演出も含め、『イカ天』のイロモノ系バンドのシンボル的存在だった。そのコンセプトは「元禄3年結成。300年の時を超えて江戸時代からやってきた」というもので、ホコ天時代(※)には山本リンダの“どうにもとまらない”や西城秀樹の“薔薇の鎖”をグラムロック風にアレンジしていたという。なお、メジャーデビュー時の契約金は1億3千万円だったというから驚きだ。
※編注:原宿の歩行者天国(ホコ天)で活動していたバンド「ヒステリック・グラマー」に氏神一番が加入する形でカブキロックスは結成された。

梅毒ジェラシーもなかなかにヒドかった。頭に赤いパンティを被って足に黒い柄のストッキングをはいた男性ボーカルのビジュアルから相当ヒドいし、迷曲“週刊秩父伝説”は今でも一部では語り草となっている。見事に審査員の顰蹙を買ったが、バンド名を「梅ジェラ」に変えて数か月後に再び登場。ノリのよさとバカバカしさはパワーアップ(?)していた。
そして、KERA主宰の「ナゴムレコード」からも音源をリリースしていた女子高校生バンドのマサ子さん。エキセントリック極まりないそのたたずまいには、多くの視聴者が驚いたことだろう。朴訥とした不思議ちゃんといった佇まいのボーカルには、筆者も良い意味での違和感と異物感を覚えたものだ。『イカ天』出演時には、なぜか大正琴を含む編成で、バート・バカラックの“雨に唄えば”を日本語でカバー。『輝く!日本イカ天大賞』でのライブでは「ベストコンセプト賞」を受賞した。

憧れのミュージシャンへの忠誠を誓うようなバンドもいた。EARTH WIND & FIGHTERSは、文字通り、Earth, Wind & Fireの完璧すぎるコピーバンド。当然ディスコミュージックの旨味を凝縮したサウンドで、演奏技術の高さは審査員のお墨付き。いわば本格派である。メンバー全員が墨を塗って黒人のような肌にするなど、ビジュアル面でも徹底してホンモノに近づこうとしていた。
VINTAGEは、『勝ち抜きエレキ合戦』(※)に出場した経験もある、中年男性4人組。都内の銀行員に勤めるメンバーから成り、The Venturesへの敬意が滲むテケテケサウンドを披露。出場時には白いスーツでキメていた。“ドライビング・ギター”という曲名の通り、ハードドライビングなグルーヴに懐かしさを覚えた年長者もいたかもしれない。
※編注:1965年6月23日から1966年9月28日までフジテレビ系列局の一部で放送されていた音楽番組。

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『イカ天』が作った「バンドをやる」ムーブメント
何かをやりたいけど、何をやっていいか分からない。『イカ天』やバンドブームはそんな人の受け皿になった。音楽が好きでバンドを始めたというよりは、何かを表現したくて、それがたまたまバンドだった、とでも言うべきか。音楽評論家の小野島大は『NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998』(『MUSIC MAGAZINE』増刊 / 監修:小野島大)で、バンドブームについて「それは言うまでもなくパンクがもたらしたのと本質的には同じである」と述べている。小野島はこうも書いている。
その昔、運動能力に優れた男の子がみな野球をやりたがったように、クリエイティヴな才能や関心を持つ子の眼がロックに向けられた時期だったと言えるかもしれない。少なくともあの番組が見る者に一種の勇気を与えたことは確かだ。ロックもバンドも、別に特別な人間がやっているわけじゃない、自分たちと同じなんだ、あれならオレにもできるかも、と。(中略)イカ天などの既存のシステムやプロの価値基準に安直にのっかっていこうという姿勢は、パンク/オルタナティヴの精神からは程遠いが、一種の民衆運動としてバンドブームは価値があったのである。その意味は決して小さくない。
―『NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998』
小野島が指摘しているように、『イカ天』主導のバンドブームとは、パンクやヒップホップの草創期に状況が似ている。1960年代には楽器が安く手に入るようになり、ガレージバンドが増えた。パンクであれば、とりあえず3コードと8ビートができれば、すぐにバンドを始めることができた。初期衝動さえあれば、歌が音痴でも、楽器が下手でも、曲が単調でも、とりあえずライブはやれる。ステージに立てる。それが、どれだけのバンドマン予備軍を勇気づけたことか。

ここから導出できるのは、バンドブームがバンドの演奏を聴くブームであると同時に、自分たちでも「バンドをやる」ブームだった、という事実である。換言すれば、これは「リスナー」ではなく「プレイヤー」が主導したムーブメントだった。当時から、バンドを始めるのに、音楽的知識はほとんど要らなかった、というかそこが本質ではなかった。1989年当時から便利なバンドスコアや安価な楽器が販売されており、あとはバンドを組む友達さえいればよかったのだ。今ならばスコアはネットにコード進行や歌詞がアップされているし、お手本が必要ならYouTubeを見て実際に手や腕の動きすら確かめることができる。
英米のパンクバンドは単調な音楽性で行き詰まり、レゲエ / ダブやフリージャズ、ワールドミュージックなど、より多様な音楽を摂取して、サウンド面での充実とアップグレードを計った。『イカ天』でも、シンプルで勢いに任せたビートバンドやロックンロールバンドの占める比率が高いものの、その音楽的出自は意外にバラエティに富んでいる。
ブルースと沖縄音楽に根ざしたBEGIN、スカのリズムに立脚したJITTERIN’JINN、サイバーパンクの意匠を纏ったサイバーニュウニュウ、華やかなグラムロックを核とするマルコシアス・バンプ、ロカビリーとロックンロールを翻案したBLANKEY JET CITY、ファンクの何たるかを知り尽くしたFLYING KIDS、ニューウェーブやネオアコースティックからソウルまでを呑み込んだLITTLE CREATURESなど、その背景には多様な領域の音楽が横たわっていた。
他方、コミックバンドは軽視されがちで、審査員からの評価は辛かった。だが、筆者は彼らの演奏にもおおいに惹きつけられた。みうらじゅんや漫画家の喜国雅彦らによる「大島渚」は、“カリフォルニアの青いバカ”という曲名はもちろん、歌詞もかなりおちゃらけていた。ブラボーは、白いタイツで乳首を青塗りにしたいで立ちで<ハイになりましょう>とハイテンションに連呼。既述だが、スイマーズの気合い一発の闇雲なエナジーには呆れを通り越して笑うしかなかった。
審査員の吉田健を怒らせたカブキロックスはその更に上を行く。歌舞伎の隈取や衣装でキメた彼らのビジュアルは、出オチと言ってもいい。だが、あのコスプレの為に一体どれだけの時間と労力がかかるか考えてみて欲しい。それは、KISSや聖飢魔IIの比でもないだろう。一生懸命バカをやる彼ら / 彼女らは、赤塚不二夫的に言うなら、「まじめにふざける」大人たちの姿を見せてくれた。ああ、なんでもアリじゃないかと。