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『イカ天』が作った「バンドをやる」ムーブメント
何かをやりたいけど、何をやっていいか分からない。『イカ天』やバンドブームはそんな人の受け皿になった。音楽が好きでバンドを始めたというよりは、何かを表現したくて、それがたまたまバンドだった、とでも言うべきか。音楽評論家の小野島大は『NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998』(『MUSIC MAGAZINE』増刊 / 監修:小野島大)で、バンドブームについて「それは言うまでもなくパンクがもたらしたのと本質的には同じである」と述べている。小野島はこうも書いている。
その昔、運動能力に優れた男の子がみな野球をやりたがったように、クリエイティヴな才能や関心を持つ子の眼がロックに向けられた時期だったと言えるかもしれない。少なくともあの番組が見る者に一種の勇気を与えたことは確かだ。ロックもバンドも、別に特別な人間がやっているわけじゃない、自分たちと同じなんだ、あれならオレにもできるかも、と。(中略)イカ天などの既存のシステムやプロの価値基準に安直にのっかっていこうという姿勢は、パンク/オルタナティヴの精神からは程遠いが、一種の民衆運動としてバンドブームは価値があったのである。その意味は決して小さくない。
―『NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998』
小野島が指摘しているように、『イカ天』主導のバンドブームとは、パンクやヒップホップの草創期に状況が似ている。1960年代には楽器が安く手に入るようになり、ガレージバンドが増えた。パンクであれば、とりあえず3コードと8ビートができれば、すぐにバンドを始めることができた。初期衝動さえあれば、歌が音痴でも、楽器が下手でも、曲が単調でも、とりあえずライブはやれる。ステージに立てる。それが、どれだけのバンドマン予備軍を勇気づけたことか。

ここから導出できるのは、バンドブームがバンドの演奏を聴くブームであると同時に、自分たちでも「バンドをやる」ブームだった、という事実である。換言すれば、これは「リスナー」ではなく「プレイヤー」が主導したムーブメントだった。当時から、バンドを始めるのに、音楽的知識はほとんど要らなかった、というかそこが本質ではなかった。1989年当時から便利なバンドスコアや安価な楽器が販売されており、あとはバンドを組む友達さえいればよかったのだ。今ならばスコアはネットにコード進行や歌詞がアップされているし、お手本が必要ならYouTubeを見て実際に手や腕の動きすら確かめることができる。
英米のパンクバンドは単調な音楽性で行き詰まり、レゲエ / ダブやフリージャズ、ワールドミュージックなど、より多様な音楽を摂取して、サウンド面での充実とアップグレードを計った。『イカ天』でも、シンプルで勢いに任せたビートバンドやロックンロールバンドの占める比率が高いものの、その音楽的出自は意外にバラエティに富んでいる。
ブルースと沖縄音楽に根ざしたBEGIN、スカのリズムに立脚したJITTERIN’JINN、サイバーパンクの意匠を纏ったサイバーニュウニュウ、華やかなグラムロックを核とするマルコシアス・バンプ、ロカビリーとロックンロールを翻案したBLANKEY JET CITY、ファンクの何たるかを知り尽くしたFLYING KIDS、ニューウェーブやネオアコースティックからソウルまでを呑み込んだLITTLE CREATURESなど、その背景には多様な領域の音楽が横たわっていた。
他方、コミックバンドは軽視されがちで、審査員からの評価は辛かった。だが、筆者は彼らの演奏にもおおいに惹きつけられた。みうらじゅんや漫画家の喜国雅彦らによる「大島渚」は、“カリフォルニアの青いバカ”という曲名はもちろん、歌詞もかなりおちゃらけていた。ブラボーは、白いタイツで乳首を青塗りにしたいで立ちで<ハイになりましょう>とハイテンションに連呼。既述だが、スイマーズの気合い一発の闇雲なエナジーには呆れを通り越して笑うしかなかった。
審査員の吉田健を怒らせたカブキロックスはその更に上を行く。歌舞伎の隈取や衣装でキメた彼らのビジュアルは、出オチと言ってもいい。だが、あのコスプレの為に一体どれだけの時間と労力がかかるか考えてみて欲しい。それは、KISSや聖飢魔IIの比でもないだろう。一生懸命バカをやる彼ら / 彼女らは、赤塚不二夫的に言うなら、「まじめにふざける」大人たちの姿を見せてくれた。ああ、なんでもアリじゃないかと。