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本場イビサの衝撃
ー1stは自分の最初のソロという意味合いだけど、それ以降は完全にダンスミュージックだよね?
杉浦:完全にそうですね。
ーそれは自然とそうなっていったの?
杉浦:自然というよりも意識してそうさせたって感じ。1990年代後半の俺がいたシーンって、盛り下がってきて、こういうとちょっと角がたつかもしれないけど、なんか傷を舐め合うみたいなところがあって、俺はそういうのが嫌だったかな。もっとかっこいいことをやってるつもりだったし。インディーロックのほうはパーティーって言わずにイベントって言ってたけど、もう自分はハウスのパーティーでしかDJをやらないって決めて、ロックのDJイベントは断るようにして。だから2000年以降からはもう完全にハウス。もちろん最初は全然オファーとかもないんだけど(笑)。知り合いもほとんどいなかったし、それでもこれでいくって決めて。特に2000年にイビサに行ってからは明確にそう思った。

ー最初のイビサは2000年なんだね。なんで行こうと思ったの?
杉浦:ちょうど2ndアルバムの『MUSIC IS THE KEY OF LIFE』を作ってる頃で、普通に最新のハウスもチェックするようになっていたんだけど、そういうトラックと自分の作るものが何か違うぞと思って。何かが欠けてるというか、足りないというか。それでいっそ本場の現場を見に行こうと思ってね。当時はみんなイビザって言ってたよね(笑)。もう25年も前なんだ。
ーちょうどピート・ヘラーの“BIG LOVE”が大ヒットしてた頃。
杉浦:そう、The Chemical Brothersが『Surrender』(1999年)出した後、Fatboy Slimが『Halfway Between The Guitar And The Stars』(2000年)、Daft Punkの『Discovery』(2001年)あたりじゃないかな。それってMy Bloody Valentineの『Loveless』とPrimal Screamの『Screamadelica』とTEENAGE FANCLUBの『Bandwagonesque』が同じ年(1991年)に出たみたいな感覚と同じだったんだよね。ちょうどミレニアムで新しい時代がはじまるような期待感もあって。
ーイビザではどんなパーティーに行ったの?
杉浦:毎日パーティーに行ったけど、いちばん凄かったのはエリック・モリロの『Subliminal Sessions』でDJがモリロとDeep Dishとダレン・エマーソン。いまでも人生のベストパーティーだったと思う。
ークラブはパチャ?
杉浦:その時はアムネシアだった。そこでX-PRESS 2の“AC/DC”を聴いたんだよ。イビサの帰りにロンドンに寄って、レコード屋であのフレーズ歌って「この曲のレコードある?」って聞いたらまだリリース前でプロモ盤が買えたんだよ(笑)。
ー俺も1998年にアムネシアで『Cream』のクロージングのポール・オークンフォールドで衝撃を受けて、人間って音楽でここまで狂えるのかって(笑)。
杉浦:2000年前半の『Cream』は凄かったですよね。
ー俺たちが話をするようになったのが2001年だね。
杉浦:そうですね、俺もイビサの話できる友達もいなかったし、その時期は日本の雑誌にも一切情報がなかったですもんね。それでイビサから帰ってきて人伝に電話番号を聞いてEMMAさんに電話したんですよ。本気でやってるから俺のトラック聴いてほしいって、EMMAさんのレーベルのNITELIST MUSICから出してほしいって言ったんだよね。
ーすごいね、完全に自分の嗅覚だけでたどり着いてるんだね。
杉浦:そうだね、1990年代に一緒にいた仲間にもわかってくれる人はひとりもいなかったし。イビサから帰ってきて渋谷のCISCOに行ってもハウスはニューヨークものが中心で、ヨーロッパのハウスがあんまりなくて。だからそれ以降イビサに行くとレコード死ぬほど買って帰ってくるようになった(笑)。特にその頃日本に入ってきにくいトライバルなやつなんかはDJをやる上での礎になったと思う。
