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【劇評】エンニュイ『きく』で描かれた、他者の話を傾聴することの困難さ

2024.7.29

エンニュイ『きく』

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お笑いコンビ「クレオパトラ」のメンバー、長谷川優貴を中心に集まったクリエイション集団の注目作

「その話今きけへんわ」

上京前に駅の売店でバイトをしていた頃のことだ。レジ締めをしながら仲のいい先輩に他愛ない話題を振ったらそう言われてしまった。先輩は私の声を含むBGMを潜在的な意味合いでミュートに設定し、小銭を数えていた。

「ごめんな、俺、別のことしながら人の話きかれへんねん」

レジが締め終わり、缶ビールを1本空けながら歩く帰路で再開したその会話がどんな話であったかは思い出せない。多分、飼い猫が太り過ぎているとか、どこのラーメンが美味しかったとかとるに足らない、それだけにその時の勢いで話してしまいたいような話だったと思う。だからかもしれないが、私は森先輩の言っていることの意味がわからなかった。あの頃の私は、別のことをしていても人の話は聞けるものだと思っていたのだろう。

あれから15年以上の時を経て、故郷から遠く離れた東京の劇場でようやくそのことに気づいたのだった。

2024年6月に東京・アトリエ春風舎にて再演されたエンニュイ『きく』。本作は2023年に上演された初演が『CoRich舞台芸術まつり!2023春』グランプリを受賞、そのスポンサード公演として上演された。エンニュイは劇団という形式をとっておらず、主宰で作 / 演出を手がける長谷川優貴は「クリエイションをする為に集まれる組合/場所」と定義している。その言葉通り、上演やパフォーマンスに限らず経験不問のワークショップなどを介して年齢や職業を横断したコミュニケーションを積極的に重ねながら演劇活動を重ねている。本来ならばこのあたりで公演概要も説明しなくてはならないのだが、その言及がこれほどに難しい公演も珍しい。そして、この「言葉にできなさ」「理屈で説明できないこと」こそが、本作の主題にぴたりと接着した、『きく』という作品の随一の魅力でもある。本劇評では初演の体感も交えつつ、本作が目指した果敢な試みを改めて紐解いていきたい。

手前からオツハタ、小林駿、二田絢乃

「人の話をどれだけきけるか」を競う架空のレース

なにしろ80分の上演時間、舞台上で描かれていくのは、話をきくこと、きかれることのみである。しかし、その連続、いや断続によって語り手と聞き手によるコミュニケーションとディスコミュニケーションがみるみると浮かび上がってくる。どちらかといえば、後者の方が色濃く。

では、「きく」という行為におけるディスコミュニケーションとは何か。それは「きけない」ということ、つまり、他者の話を聞くことの困難さである。

例えば、冒頭で男が「母親が癌になった」と周囲に打ち明けるシーンがある。男の神妙な一声は、発されたその瞬間こそ水面に最初に落ちた大きな雨粒のような騒めきを周囲に与えるものの、その状況に慣れた人々は徐々に関心を保てなくなっていく。脳内で別のことを考え始める人、自分の話に転じてしまう人……他者の話を傾聴できなくなっていく人々の様子が矢継ぎ早に描かれていくのだ。

小林駿

さらに、印象的だったのが、その様子を「笑い」を運用しながら描く試みである。「人の話をどれだけきけるか」を競う架空の競技が実況されるシーンがあり、大きな筒に耳を当て、話し手の話が最後まできけるかをチーム対抗となって競うのだが、ここでもまた多くの選手が脱落をしていく。リアリティ溢れる実況、そのユーモアとシニカルさに客席からはちらほら笑いが起きる。類に漏れず私も笑ってしまったのだが、その描写にはひやりとするものもあった。「話を最後まできくことができない描写を笑う」という行為がそのままブーメランとなって自分に返ってくるような感触である。

「あの選手たちは、日頃の私であるのかもしれない」

話し手と聞き手によるディスコミュニケーションがいつしか舞台と客席のそれに置換され、誰でもない自らが、いち「聞き手」としての本領を問われていくような。そんな痛快と痛切が同じくらいの濃度で滲むシーンであった。

zzzpeaker
オツハタ(左)、市川フー(右)

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