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経営を軌道に乗せた曽我部恵一BANDのヒット。その背景にはフェス勃興も
―2006年には下北沢に「CITY COUNTRY CITY」をオープンしていますが、それはどういった経緯だったのでしょうか?
曽我部:事務所をつくって、いろんな人が訪ねてきてくれたなかで、今CITY COUNTRY CITYの店長をやってる(平田)立朗くんも来てくれて。夜にお酒を飲みながら喋ってて、彼はそのときディスクユニオンで働いてたんですけど、「下北でレコード屋さんをやりたい」みたいな話をしてて。でも下北は家賃が高いから、レコード屋さんをやりながらバーカウンターもつくっておいて、夜はバーをやるなり二毛作みたいな感じでやった方がいいんじゃないっていう話を何となくしてたんですよ。そうしたら、「ユニオンやめてきた。物件探しに行こう」みたいな話になって、めちゃくちゃ焦って。自分のことでも大変なのに、お店やるなんてやばいと思って、でももうやめてきたって言ってるから、「じゃあ……探す?」っていう、すごい消極的な気持ちで探し始めて(笑)。そうしたら今の場所が出てきて、値段もまあまあ手頃だったんですよ。でも下北は敷金10ヶ月分とかだから、頑張って地方をどさ回りしたのに、またお金が全部なくなって、内装工事をするお金もないから、自分たちでやって。そのころには仲間がいっぱいいたから、みんなで壁を剥がしてね。
―曽我部さんは「お金がなくなる」っていうことに対してタフだし、そこで守りには入らない感じがありますよね。
曽我部:そこがないよね。「なんとかなんじゃない?」みたいな。これだけのことをやるんだったら、協賛とかスポンサーをつけて、そこからお金を引っ張ってこようっていう発想が普通だとは思う。でも結局それが嫌だから大手をやめたわけじゃん。だからそもそもがそういう考え方っていうか、それを否定しちゃってるというか、それを自分がやりたくないから、何とか自分たちでやろうっていうのはあったかもしれない。
―手探りでレーベルを運営していきながら、経営的に軌道に乗ったのはいつ頃だったのでしょうか?
曽我部:弾き語りライブと並行して、2005年に曽我部恵一BANDを組んだんですよ。地方フェスが出てき始めたころで、フェスだとやっぱりバンドの方が盛り上がるしね。最初に『キラキラ!』っていうアルバムを出したのが2008年かな。その作品が売れて、自分のソロ活動がある程度軌道に乗って落ち着いたというのはあったかな。