曽我部恵一主宰のROSE RECORDSが設立から20年目を迎えた。ソロとサニーデイ・サービスのリリースを軸としつつ、ランタンパレードや奇妙礼太郎所属のアニメーションズ、MOROHAなど良質なアーティストを世に送り出し、あくまでDIY精神を貫くその姿勢は、インディペンデントレーベルの鑑と言える。またカフェバー兼レコードショップの「CITY COUNTRY CITY」、コロナ禍以降は「カレーの店・八月」を運営するなど、下北沢に軸足を置き、街とともに歩んできたことも特筆すべきだ。
この20年で、音楽を取り巻く環境は大きく様変わりした。2005年にiTunes Music Storeが日本でもスタートし、その後にYouTubeやTwitter、スマートフォンが登場。インターネット黎明期からSNSの時代へと突入し、音楽の器はCDからストリーミングへと移行した。そんなドラスティックな変化を駆け抜けたROSE RECORDSの歴史と曽我部の経験や思考は、表現活動を志す誰しもに知恵や勇気を与えてくれるはず。今日も街のどこかで愛と笑いの夜が生まれ、新しい何かが始まっている。
INDEX
目標に対して結果を出していく。そんなやり方への違和感から単身独立
―まずは2004年にROSE RECORDSを設立した経緯を教えてください。
曽我部:2002年と2003年にユニバーサルさんから2枚契約でソロを出した後、最初は別のレコード会社を探そうと思ったんです。でもまたメジャーレーベルと契約をして、目標に対して結果を出していくっていう仕事のやり方はちょっときついなと思ったんですよね。
それで、当時所属していた個人事務所とも別れて、とりあえず一人で下北の不動産屋に行って。そのとき2LDKの古いマンションに住んでたんですけど、小さい子供と奥さんがいて、家だと仕事ができないから、事務所を借りようと思って。そうしたら、下北沢一番街の先の物件を紹介されたんですよ。路面の物件で、ガラス張りになってて、もともと雑貨屋さんか何かだったのかな。ちっちゃい一間なんですけど、雰囲気がわりと良かったんです。家賃もたしか10万くらいで、払えなくはない金額だったから、その日のうちに「もう決めます」って。それがROSE RECORDSのスタートでした。
―レーベルをやることに対する憧れもあったのでしょうか?
曽我部:MIDI(※)にいたときに自分たちのレーベルみたいなことをちょっとやってて、ザ・ハッピーズとかN.G.THREEの作品を出したりしてたんですよ。でも2004年のときは「レーベルをつくる」っていうよりも「独立する」っていう意味合いが強かったんだよね。レコードをつくりたいっていうよりも、まずはそこで仕事を受けてやっていくっていうことだった。事務所には何もなかったから、デスクとかFAXとかパソコンを買ったり、いろいろしてたらすぐお金がなくなっちゃったんだけど。
※1984年に設立されたレコード会社。サニーデイ・サービスや大貫妙子、ゆらゆら帝国などをリリース
―それでやっぱりどこかと契約しようとはならなかったんですか?
曽我部:それが嫌だったわけだからね。利益を出そうっていう発想で作品をつくるのもときにはいいけど、ときには自由にやりたくて、「100枚限定のレコードをつくりたい」みたいな気持ちもあったから。大きい会社だとそういうことは絶対できないんですよ。
だから、もう自分でやろうっていうのは決めてたし、最初は楽しかったですよ。事務所をつくってやり始めたら、いろんな人が訪ねて来てくれたし。ただ、自分ではCDの流通のやり方もわからないから、昔からの知り合いがいるブリッジ(流通会社)に相談に行ったら、「レーベルというのは自分たちでCDやレコードをつくって宣伝・営業し、在庫も管理する。流通はそれをいろんなお店に置いてもらうように働きかけるんだよ」って教えてもらって。本当に、イチからですね。
―今はアマチュアでもデジタルの流通会社を使って気軽に配信リリースができるわけですけど、当時はCDの時代で、「リリースをする」というのはハードルの高いことでしたよね。
曽我部:ちょうどネットで情報収集できるようになってきた時代だったから、ネットで一番安いCDプレスを探しつつ、輸入盤みたいな紙ジャケにできるところを探したりとかして。ただ、何社か比べて「ここが安いな」みたいに見積もりとかもとってなかったから……儲かってないよね(笑)。
―友達だったり好きなミュージシャンのリリースを手伝ってあげたい、サポートしてあげたいみたいなこともモチベーションだったのでしょうか?
曽我部:大きいレコード会社にしていこうみたいな発想は全くなくて、自分が好きな音楽を好きなように出すっていうだけのわがままな感じで。例えば、たまたま大阪に弾き語りのライブに行ったときにアニメーションズを見て、めっちゃすごいと思って、「何も出てないの? じゃあ、レコードを作ろうよ」みたいな感じですぐに出したりとか、そんな感じの始まりだったんですよね。
INDEX
「手に職がない」という独立後の危機感から、ライブ行脚をスタート
―レーベルを始めてすぐにお金がなくなったというお話でしたが(笑)、実際経営的にはどのように進めて行ったのでしょうか?
曽我部:まあ、やりながらかな。結局ライブで各地を回って、そのギャラとか物販の売り上げがないとっていう感じではあったよね。ライブめちゃくちゃ入れてたもん。
―宣伝はどうしていたんですか?
曽我部:当時は雑誌に広告を打ったりする体力は全くなかったし、例えば『ROCKIN’ON JAPAN』に広告を打つことと、好きなアーティストに自分たちの曲をリミックスしてもらってレコードをつくるのと、どっちがいいかなって考えたら後者だったのね。そもそも比べるもんじゃないんだけど、根本にはそういう思いがあるから、次第にメディアへ出稿もしなくなったんです。
だから宣伝と言っても、自分の足でどこでも行って歌ってくることしかなくて、もうひたすらそれ。そうやって「どこでも行きます」っていうスタイルでやり始めたら、「ライブとかやったことがないカフェなんですけど、呼べますか?」みたいな連絡が結構増えてきて。だから今はいろんな人がそこでライブをやってるけど、俺が一番最初だったっていう場所が結構あるんです。
―曽我部さんきっかけでライブスペースとして使われるようになったと。
曽我部:「どこでもできますよ。マイクとかなくてもいいんで」ってやってたから。それは一つには、自分の力をもうちょっとちゃんとつけなきゃっていうのもあったんです。それまでどさ回り的なことをしたこともなくて、移動に新幹線が用意されているようなおぜん立てされたツアーだったから、自分で会場に行って、お金をもらって帰ってくるっていうのをやらないとなって。そのとき30代前半だったんだけど、ここでこのあとのキャリアも変わってくるなってすごい思ってて。だからもうめっちゃライブやってた。
―そんな危機感があったんですね。
曽我部:独立したときに手に職がないなっていうのをすごい実感して、手に職をつけなきゃって思いました。そのうちに、ここはお客さんがこれだけ入ったら何%バックをもらえるとか、チケットの売り上げは全部バックしてもらう代わりにドリンク代は会場に入れるとか、いろんなやり方があるんだなっていうのも勉強になったし、物販はどういうのが売れるかなとか、Tシャツつくるのはいくらかかって、みたいなこともちょっとずつわかっていって……それで今に至るって感じ(笑)。そのやり方は今もあんまり変わってないね。