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『不適切にもほどがある!』から続く「雑に救う」の意味

ここからは全くの私見と推測になってしまうが、おそらく宮藤は、恵まれた環境で頭のいい人たちが右か左か、白か黒かと言い争っているリベラル界隈を、上から目線の息苦しいもの、不寛容なものと感じているのではないかと思う。
それに対して、歌舞伎町という高潔なモラルや良識が通用しない場所では、「何はともあれどんな命でも雑に助ける」という下から目線の「雑な平等」が有用であり、そこにこそ平等の本質や真の寛容はあると言いたいのではないか。それが現時点での私のクドカン作品に対する見立てだ。
この社会には、「人間は平等に尊くて高潔で価値がある(だから尊重されるべきだ)」と言われても、文化資本に恵まれた頭のいい人たちによる偽善や机上の空論にしか聞こえなくて、自分はそこから取りこぼされていると感じてしまう人たちが一定数いる。そして、そういう人たちにとっては、「人間は平等に愚かで滑稽でくだらない(だから愛おしいんだ)」と雑に言われた方がはるかにリアルで救われるのだろう。
前者を「上から目線の意識の高い平等主義」、後者を「下から目線の意識の低い平等主義」とすると、宮藤の目線はいつも後者に寄り添っており、その姿勢に救われて支持する視聴者がたくさんいる。その感覚を理解できないと、「雑な」というのが単なるバックラッシュや揺り戻しに思えてしまう。
第5話で、宮藤は公園の排除ベンチやマイナ保険証などの社会問題に言及し、「マイナ保険証も結構だが、対応できない者もでーれーおる。年寄り、貧乏人、外国人、家出人、路上生活者。そういった連中をどうか排除せんでくれ」とヨウコに言わせている。
宮藤はいつだって、「取りこぼされた人たちに寛容であれ」と思っているだけなのだろう。しかし、何から取りこぼされ、誰に寛容であるべきかを精査せず、まさに「平等に雑に助け」ようとしてしまうから賛否が分かれる。前作『不適切にもほどがある!』への批判が多かったのには、そこにも原因があると思う。
「上から目線の意識の高い平等主義」と、「下から目線の意識の低い平等主義」。筆者は、それはどちらも等しく人間讃歌であって、イズムが違うだけだと思っているのだが、残念ながら両者が相容れないこともわかるから難しい。放送も折り返しを過ぎた『新宿野戦病院』が、これからどんな人たちを「雑に救う」のか、注視したい。
『新宿野戦病院』

フジテレビ系にて毎週水曜夜10時から放送中
公式サイト:https://www.fujitv.co.jp/shinjuku-yasen/