メインコンテンツまでスキップ
NEWS EVENT SPECIAL SERIES

クドカン流人間讃歌のドラマ『新宿野戦病院』を人間関係と会話から分析する

2024.8.14

#MOVIE

毎週水曜夜10時から放送中のテレビドラマ『新宿野戦病院』(フジテレビ系)。『不適切にもほどがある!』(TBS系)も話題となった人気脚本家・宮藤官九郎(クドカン)が手掛けたオリジナル脚本作品ということもあり、放送前から注目を集め、初回の「無料見逃し配信」(TVer・FODの合計値)は、放送後1週間で339万再生を記録。水曜夜10時から放送されるフジテレビ「水10枠」における歴代1位の記録を更新するなど話題となっている。

物語の舞台は、新宿区歌舞伎町にある「聖まごころ病院」。救急外来も受け付ける病院には、場所柄、大変な病気や変わった怪我を負った患者たちが集う。患者たちの背景も、路上生活者や在留外国人、ホストなどさまざま。そんな「新宿野戦病院」に、とあるきっかけでアメリカ国籍の元軍医が訪れたことによって、病院にいる個性豊かな医師や看護師たちを巻き込んだドラマがはじまる―。

宮藤官九郎ならではの軽妙で笑える会話や重層的な構成だけでなく、現実にある格差や福祉などに纏わる社会問題をさり気なく扱っていることも特徴的な本作の第1話~第6話について、長らく宮藤作品を追い続けてきたライター・文筆家の福田フクスケがレビューする。

※本記事にはドラマの内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。

ヨウコ(小池栄子)が英語と岡山弁とのちゃんぽんでしゃべる理由

宮藤官九郎は、生と死、喜劇と悲劇、リアルとフィクションといったあらゆる二元論や二項対立の境界を曖昧にして相対化し、そのあわいにあるものを描こうとする脚本家である、というのが筆者のかねてからの持論である。

宮藤のその姿勢は、『新宿野戦病院』でも健在だ。第1話には、アメリカ国籍の元軍医であるヨウコ・ニシ・フリーマン(小池栄子)が、英語の「Yeah(YES)」と日本語の「いや(NO)」の中間を狙って曖昧に返事をする、というシーンをギャグっぽく描くが、実は宮藤の世界観を象徴する重要な描写だと思う。

聖まごころ病院に勤める内科・小児科医の横山勝幸(岡部たかし)は、「パパ活とギャラ飲みの違いは女の子が決めること」「堀井さんが男か女かは本人が決めること」「(治療を)やるかやらないかは患者の状態が決めること」と繰り返す。物事の白か黒か、YESかNOかを決めるのは常に当事者であって、第三者や部外者がジャッジするのは傲慢である、ということが暗に示されている。

同じく病院の看護師長である堀井しのぶ(塚地武雅)が男なのか女なのか問われ、経理担当の白木愛(高畑淳子)が「考えたことない。堀井さんの性別とか気にしたこと一度もない」と答えるのも示唆的だ。成金ドクターとホームレスのどちらが幸せか。3年後に自分はSなのかMなのか。NPO法人「Not Alone」新宿エリア代表の南舞(橋本愛)とSMの女王様のMay、どちらの顔が本物なのか。本作にはさまざまな二項対立の問いかけが出てくるが、物事の答えは二元論の枠組みにはない、という点で本作は一貫している。

この「クドカン的世界観」を代表するキャラクターが、本作ではヨウコである。彼女は、属性や立場といった人々を分断する構造には興味がなく、物事の本質は「命は平等」という一点にしかないと考えている。彼女が、決して上手いとは言えない英語と、岡山弁とのちゃんぽんでしゃべる理由もそこにある。ヨウコにとって、どちらの言語でしゃべるかは重要ではなく、「言いたいニュアンスが伝わるかどうか」という本質しか重視していないのである。

享(仲野太賀)が目を向けない構造の問題

本作で特に強調されるのが、「上か下か」によって分断されるこの社会の構造である。おっさんから金を吸い上げた女性たちが、その金をホストに貢ぐ歌舞伎町の搾取構造のピラミッド。金にならない重傷患者と、金になる軽傷患者。医療費が高額なため富裕層しか満足な治療が受けられないアメリカの医療格差。社会生産性を含めた命の選別とトリアージの問題。私たちが生きるこの世の中は平等ではないという現実が、嫌というほど突きつけられる。

そんななか、美容皮膚科医の高峰享(仲野太賀)は、「なんで俺が貧乏人の目線まで降りてかなきゃなんねえんだよ」というセリフが象徴するように、最初、上から目線で傲慢な人物として描かれる。ボランティアによる支援が必要な人たちに対しても、「あいつら平気で裏切るし、踏み倒すし、開き直るし、逃げるし」と冷淡で、彼らがそうなる構造には目を向けようとしない。

また、舞がSMの女王様という裏の顔を持つことも知らずに「無垢で汚れを知らない」と決めつけて一方的に好意を寄せるのも印象的だ。「俺が舞に合わせるんじゃなくて、舞が俺に合わせるべきじゃね?」「もっと外見を磨いて自己肯定感を高めた方がいい」「俺なら舞を幸せにできる」と金に物を言わせようとうそぶく。富裕層の立場から、世の中が平等ではないことを空気のように甘受しているキャラクターなのだ。

しかし、ヨウコだけはそうした不平等な階層構造を関知しない。「運ばれてくるときはみんな違う人間、違う命、なのに死ぬとき、命が消えるとき、皆一緒じゃ」と語る彼女は、命の危険にさらされた人間を前にして、誰しもを分け隔てなく「平等に雑に助ける」。

母親からネグレクトされ、母親のパートナーによる性加害から逃れてきた家出少女のマユ(伊東蒼)は、歌舞伎町の階層構造の中では限りなく底辺に追いやられた存在だ。そんな彼女を、ヨウコは「おめえ死んだら、ぼっけえ悲しい」「わしがおる限り命は助ける。何べん死のうとしても絶対助ける」と、力強くその生を丸ごと肯定する。マユがヨウコに惹かれて、家でも学校でもないサードプレイスとしての聖まごころ病院を居場所に選ぶのは、二元論に収まらないクドカン脚本らしい。

そして、そんなヨウコの姿勢に享もまた感化されていく。外科医以外を下に見る医者の家系に生まれた暗黙のヒエラルキーの中で、命に関わる仕事ではない美容皮膚科医に負い目を感じていた享。だが、「命ある限り美しくありたい。それが人間。じゃけんおめえも立派な医者じゃ」とヨウコに言われ、そのアイデンティティを認められたように感じて救われるのだ。

宮藤官九郎がヨウコの「雑な平等」に込めたもの

第3話に、本作のカギとなるであろう場面があった。家にも学校にも施設にも居場所がなく、歌舞伎町に救いを求めて流れ着いてきたマユのような子たちを、搾取する大人の手から守り支援しようとする舞。しかし、「そういう子たち」という舞の言い方の中に含まれる、無自覚なレッテル貼りと、無意識の「かわいそう」という上から目線を、当事者であるマユは敏感にキャッチしてしまうのだ。

本来、支援の必要な弱い立場であることは、決して負い目に感じたり尊厳を損なったりすることではない。理論上は正しいが、当事者にとっては綺麗事であり、自分が弱者であることを認めると自尊心が傷ついてしまうという現実に、どう寄り添うかは極めて難しい問題である。

自分を弱者だとジャッジしてくる時点で、マユにとっては児童相談所もNPO法人も居場所にならない。だからこそ、そもそも強者 / 弱者という分け方で人を見ていない、「雑な平等主義者」であるヨウコの分け隔てない態度が、マユには救いだったのだと思う。

その後の第4話で、マユの母親・カヨ(臼田あさ美)は自分のことを「私みたいな女」と称し、社会に出ても何もできない、育児も向いてないと卑下する。いわば学習性無力感にとらわれ、搾取や貧困のループから抜け出せずにいる女性である。そんな彼女に、舞は自戒を込めて「“私みたいな女”から“そういう子”が生まれるって考えに、大人がとらわれてちゃいけませんよね」と説くのだ。

最終的に第5話では、娘に性加害をしていた男との縁を切って親子2人でやり直したいと決意するカヨだったが、携帯電話も変えず、引越しの踏ん切りもつかない様子を見かねたマユは「家族なんかとっくにぶっ壊れてる」と言い放ち、「あんたもうちもあの男も3人とも病気なの!(略)だから1人で生きていくしかないの!」と、母親との関係を断ち切ることで負のループから抜け出そうとする。

私たちは、社会の差別や搾取といった構造の問題を考えるとき、誰が加害者で誰が被害者か、誰が強者で誰が弱者か、誰がマジョリティで誰がマイノリティかをつい一方的にジャッジしてしまいがちだ。だが、そのジャッジは当事者にとって時に、上から目線の傲慢な「分断」に思えてしまう。

宮藤官九郎という作家は、あらゆる二元論を有耶無耶にはぐらかし、曖昧に否定することで、白か黒か、YESかNOかをジャッジしてしまうことの傲慢さを指摘し続けている。そして、そんな構造があること自体を無視して誰彼構わず命を救ってしまうヨウコの「雑な平等」に、ある種の理想を見出しているのではないだろうか。

『不適切にもほどがある!』から続く「雑に救う」の意味

ここからは全くの私見と推測になってしまうが、おそらく宮藤は、恵まれた環境で頭のいい人たちが右か左か、白か黒かと言い争っているリベラル界隈を、上から目線の息苦しいもの、不寛容なものと感じているのではないかと思う。

それに対して、歌舞伎町という高潔なモラルや良識が通用しない場所では、「何はともあれどんな命でも雑に助ける」という下から目線の「雑な平等」が有用であり、そこにこそ平等の本質や真の寛容はあると言いたいのではないか。それが現時点での私のクドカン作品に対する見立てだ。

この社会には、「人間は平等に尊くて高潔で価値がある(だから尊重されるべきだ)」と言われても、文化資本に恵まれた頭のいい人たちによる偽善や机上の空論にしか聞こえなくて、自分はそこから取りこぼされていると感じてしまう人たちが一定数いる。そして、そういう人たちにとっては、「人間は平等に愚かで滑稽でくだらない(だから愛おしいんだ)」と雑に言われた方がはるかにリアルで救われるのだろう。

前者を「上から目線の意識の高い平等主義」、後者を「下から目線の意識の低い平等主義」とすると、宮藤の目線はいつも後者に寄り添っており、その姿勢に救われて支持する視聴者がたくさんいる。その感覚を理解できないと、「雑な」というのが単なるバックラッシュや揺り戻しに思えてしまう。

第5話で、宮藤は公園の排除ベンチやマイナ保険証などの社会問題に言及し、「マイナ保険証も結構だが、対応できない者もでーれーおる。年寄り、貧乏人、外国人、家出人、路上生活者。そういった連中をどうか排除せんでくれ」とヨウコに言わせている。

宮藤はいつだって、「取りこぼされた人たちに寛容であれ」と思っているだけなのだろう。しかし、何から取りこぼされ、誰に寛容であるべきかを精査せず、まさに「平等に雑に助け」ようとしてしまうから賛否が分かれる。前作『不適切にもほどがある!』への批判が多かったのには、そこにも原因があると思う。

「上から目線の意識の高い平等主義」と、「下から目線の意識の低い平等主義」。筆者は、それはどちらも等しく人間讃歌であって、イズムが違うだけだと思っているのだが、残念ながら両者が相容れないこともわかるから難しい。放送も折り返しを過ぎた『新宿野戦病院』が、これからどんな人たちを「雑に救う」のか、注視したい。

『新宿野戦病院』

フジテレビ系にて毎週水曜夜10時から放送中
公式サイト:https://www.fujitv.co.jp/shinjuku-yasen/

RECOMMEND

NiEW’S PLAYLIST

編集部がオススメする音楽を随時更新中🆕

時代の機微に反応し、新しい選択肢を提示してくれるアーティストを紹介するプレイリスト「NiEW Best Music」。

有名無名やジャンル、国境を問わず、NiEW編集部がオススメする音楽を随時更新しています。

EVENTS