河合宏樹監督による映画『平家物語 諸行無常セッション』が、10月25日(金)より京都・大阪、11月9日(土)より神戸で上映開始され、関西での「遍路」に入る。
本作は、古川日出男、坂田明、向井秀徳の3名によって2017年5月28日に高知県・五台山竹林寺で開催された、古川の『平家物語』現代語訳(河出書房新社、2017年)を下敷きにした朗読と音楽による一夜限りのセッションの模様を64分にわたって記録したライブ映画である。
封切りとなる9月7日(金)から13日までは新宿K’s cinemaで1週間限定上映され、期間中、河合監督による「自身で監督したライブ映画に、トークやライブという『生』のイベントを毎日ぶつける」という試みがなされた。
本稿はそのイベントの断片を留めるための文章である。これは映画の、1週間の全てではない。しかし、これを読んだ人々の心の中に「ここから始まるものがある」と信じて執筆する。
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古川日出男・坂田明・向井秀徳の突発セッションが繰り広げられた第一夜

第一夜は、本作の出演者である古川日出男、坂田明、向井秀徳に加え、河合監督がトークに登壇。2017年に行われたセッション当時の心境や、本作を映画として改めて観賞したことで生まれた思いなどが語られた。
河合監督は、上映に漕ぎ着けるまでの約7年間を振り返り、「『やっぱり映像にはみんな残らないなあ』っていう自問自答というか、苦しさの中で撮り続けています」と葛藤を吐露した。
河合監督の発言を受けて、坂田は「実際、世の中というのは『くりかえされる諸行無常』、その通りなんですよ。自分は『諸行無常』のまま生きていて、『よみがえる性的衝動』というものがずっとあって、形は変わっていくけど『縁』が消えることはない。それが生きてるってことだと思うんだよね、なくなったら死んじゃうんだから」と話し、「自分の思っていることができていると思うか、思わないか。それはあなたの別の問題なわけですよ。この作品はもうできちゃってるんだから、止めようがないんだよ。もう観ちゃったんだから」と河合監督を鼓舞して、観客の笑いを誘った。

古川は、坂田や監督の発言と重ねるようにして、「あれは繰り返せない。あの日のセッションはあの時しかできない。みんなが作っていく渦の中に自分も巻き込まれていって、自分も渦を攪拌する人間として存在していた、という言い方しかできないです」と述べた。
40分ほどのトークの後、不意に、向井が持ち込んだエレキギターの音が、腰のベルトに結び付けられた小型アンプを通して鳴り響き、照明がゆっくりと暗転。向井の「盛者必衰の理のブルースを、是非ともお願いしたいんですけれども」という言葉を合図に、この場限りのセッションが始まった。河合監督も咄嗟にカメラを手持ちで取り出し、撮影でセッションに参加する。
重く、鋭く、ざらついたギターの弦から生まれる一音一音が、風に吹き飛ばされる花弁のように浮かんではどこかに消える。目を閉じて呼応する坂田の声は、79歳という年齢を感じさせないほどの生命力に満ちていた。それは玉虫色に光り輝いており、「唸り」「がなり」と例えている隙に、「読経」にも似た霊性を帯びて、やがて「憤怒」「悲哀」の表情を覗かせる。

剥き出しの声の塊だったものが『平家物語』の一節へと変貌していくと、古川がポケットから取り出した『般若心経』を唱え出す。はじめは淡々とリズムを刻み、やがて坂田の破裂しそうな発声に張り合うかのごとく段々とボルテージを上げ、坂田と共に「叫び」と「叫び」の螺旋を形成していった。その後、古川の朗読は自身の作品『聖家族』にZAZEN BOYSの“DANBIRA”を融合させたものに変化し、坂田は「蕎麦屋の二階で、そばやそばーや!」と絶叫する。
これは映画の上映を記念して行われた7年前の再現ではない。『平家物語』の中で絶命した、あるいはその後の歴史も含めて時代の隅に追いやられた魂を呼び起こす行為であり、どれほど悲劇を留め、伝えていこうとも、同じ過ちを繰り返す人間たちへの遺憾の表れであり、それをわかっていながらも、表現を、創作を、記録をやめられない者たちへの寿ぎである。古川、坂田、向井の3人が、言葉と声とギターの3つだけを使って作り上げた、ハレとケ、生と死の境界線が、ここには、確かに、あった。
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「『記録映像』はライブには負けちゃう」七里圭と河合が語り合った第二夜
この日は、河合監督が「心から尊敬している」という映画監督・七里圭との共演が実現。「ライブ映像が映画になるためには」というテーマで対話した。
七里は「もうね、ノリノリだった! すごいポップ、僕の大好きなエンターテインメント。揺れ動きながら観てましたね」と興奮気味に感想を話し、「パフォーマーっていうのは手に届かないところにいる人たちで、辛うじてその人たちと組み合うことができるとしたら、映画を作ることなんですよ。ただ、パフォーマンスというものは絶対映らないとも思ってる。映らないところにパフォーマンス、ライブの本質があって、それを映画にするっていうのは、そもそも不可能に挑戦することで、だからそこで何かを考える。映画というものを考える。映画としてパフォーマンスをどうするかっていうのを考える」と話した。

その上で「ただ、例外が1人だけいて、それが河合さんなんですよ。映像がライブになっちゃうんですよね。独特の嗅覚というか、フレームワークというか、ピントだとか、ちょっとしたことだと思うんだけど、パフォーマーとシンクロする。被写体との関係性ができている。さらに言うと、河合さんのカメラは、他のカメラと混じり合わないんです。それだけの個性がある。映画のカメラではないというか、踊っているような感覚がある。だから、河合監督の作品は一番ライブなんだよ」と評する。
河合監督は照れ笑いを浮かべながら、本作の上映を新宿 K’s cinemaから始めた理由について告白。七里が2022年に発表した『背 吉増剛造×空間現代』を同館で観賞し、作品の素晴らしさと音の良さに感動し、「『平家物語 諸行無常セッション』と同時上映したい」と思ったことがきっかけだという。
『背 吉増剛造×空間現代』は1939年生まれの詩人・吉増剛造と、空間現代が京都のライブハウス「外」で行ったコラボレーションの模様を記録したもの。画面には吉増の背中だけしか映らず、空間現代は画面には全く映らない。音だけである。
七里は「絶対敵わないんです。音楽だけじゃないです、ダンスも、演劇もそう。その時、その場にあったパフォーマンスは絶対に画面には映らないし、『記録映像』はライブには負けちゃうんだよね。だから、相手にリスペクトがあればあるほど、ただ『記録させてもらいます』ということにはしたくない」と前置きし、「この作品は、『こういう風にしか組み立てられないだろうな』っていう位置にカメラを置いて1人でやる。そんなに広くない会場の中の真ん中に吉増さんがいて、それを取り囲むように客席を作り、その間に空間現代の3人がいた。これはもう、何かを捨てるしかない。3人も吉増さんとは何度か共演していて、曲を作ってあてるっていうことはしてたけど、インプロビゼーションは初めてだったんですよ。そういう緊張感も伝わってきて、『3人は音になろうとしている。音は撮れないよね、音は音であればいい』と思い切りました」と当時を振り返った。

その経験を踏まえて、「映画って、そうやって何かを捨てることで、欠如した部分を想像してもらって、それによって何か膨らみができるみたいな効果がある」と述懐し、河合監督の思いに共感した。
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我々の中の「平家」とは。管啓次郎と安東嵩史が「近代の病」を語る第三夜
第三夜に登壇したのは、会場で販売する本作の副読本への寄稿者であり、古川と数々の朗読パフォーマンスをともにしてきた比較文学者・詩人の管啓次郎と、同書の企画・編集を務めた安東嵩史。「<落人>たちの群島、あるいはその想像力」を主題に据え、人間が繰り返す負の歴史、蹂躙された人々にとっての物語の必要性を照射した。
安東は「管さんに原稿をお願いした時に『落人の話を書いてください』と依頼したんです」と切り出し、源氏に敗れて流れ着いた平家の落人たちによって拓かれたと伝わる、ある集落について紹介。「本当にその通りかもしれないし、そうじゃないかもしれない。『平家の落人』というのは想像力を掻き立てる、非常に魅力的な物語でもありますが、きっと単なるファンタジーではない。鎌倉時代だけでなく室町から戦国を挟んで江戸時代と、ずっと現世の権力者は源氏や執権北条氏のようにその政治的な流れを汲むものという世が続く中で、『自分たちは平家なんだ』という思いが、日本列島の各所で色んな形で孤立して暮らしを営んでいる人たちを守ってきたのもしれない」と話した。

さらに、「土地の歴史というものは、余所者を排除する、もしくは余所者として排除されることで、語られ始めることがあると思うんです。その中で、何処からかやってきた余所者を自分たちの中心に据えて語り始めるということ。これはやっぱり興味深いですよね」と述べた。
管は、「孤立している人たちが『自分たちが生きていることの根拠』を求める時に、何かの物語が必要になる。その物語として一番手に入りやすかったのが、色んな形でメディア化される以前の、人間が『声の物語』として伝えてきた『平家物語』だったんじゃないかと思います」と語った。
また、「平家は敗者であり、歴史の中で取り残されていった人たち。それを自分たちのアイデンティティとして、『平家の落人』ということを語っていくというのはわかりやすい構図です。でも僕は、『本当の敗者』とは我々全員のことなんじゃないかと思っています。明治以降のごく単純化した『殖産興業』『富国強兵』といった言葉に表されているような国家の方針で、男女問わず貧しい人たちの子供の命が使い捨てにされた。そういった歴史をすっかり忘れて、『辺野古の海を埋め立てたっていいじゃない』『道路を作ればいいじゃない』『リニア新幹線作ればいいじゃない』『何やったっていいじゃない』といったことを繰り返している。全く変わっていない。僕は東日本大震災が起きた時『何か変わるんじゃないか』って思った。けど、実感がない。そして究極は、みんな『平家の人』になっていくんじゃないかと」と本心を打ち明けた。
安東は「過去を消し去って現在性のみに依拠する、つまり記憶喪失であることがあたかも正しいことであるかのような近現代において、『過去から現在に連なる記憶を保持している』ということは、いわばこの物語における平家の人々の立場に近接していくということなんですよね。『これはおかしいんじゃないか』とか『この風潮には乗れないぞ』とか、それぞれの中の『平家性』みたいなものがそこに立ち現れてくる」と繋ぐ。

最後に管は「その記憶喪失に迎合するような形になってしまったものたちっていうのは、実はすごく悲しんだかもしれない。この映画は、そういったものに触れられる力があったと思うんですよね。それはパフォーマンス自体もそうだし、河合くんが撮った映像もそうだし、人間世界を超えて、人間世界に放たれている非常に大きな循環の中の劇を見せてくれている」と本作を称賛した。