移民排斥を標榜するトランプ大統領が再任して間もなく発表された第97回アカデミー賞。アカデミー会員たちが支持をしたのは、まるでトランプへのカウンターのように、多様なルーツを持つ人たちの奮闘を描いた作品群だった。
中でも下馬評の高かった『エミリア・ペレス』を抑えて5部門を受賞したのが、ショーン・ベイカー監督の『ANORA アノーラ』(2月28日より公開中)である。アメリカ映画ではあまり取り上げられてこなかったNYのロシア系コミュニティを舞台に、セックスワーカーの「結婚」とその顛末を描いたインディペンデント映画、その魅力に迫る。
※以下、映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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「身ひとつでサバイブする人々」へ光を当て続けるショーン・ベイカー監督
第97回アカデミー賞は、就任直後から移民排斥の姿勢を強く打ち出すトランプ大統領への強烈なカウンターを感じさせる結果となった。助演女優賞と歌曲賞を受賞した『エミリア・ペレス』はメキシコ社会での抑圧を跳ね飛ばそうとする女たちを描いた作品。主演男優賞受賞の『ブルータリスト』と、助演男優賞受賞の『リアル・ペイン』はそれぞれユダヤ系移民の足跡をたどる物語だ。国際長編映画賞はブラジル初の受賞となった『アイム・スティル・ヒア』、長編ドキュメンタリー賞の『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』はパレスチナ初のオスカー受賞作となり、長編アニメーション部門でも『FLOW』がラトビア人監督としての初の受賞。このように、映画産業がいかに多国籍な才能で彩られているかを改めて感じさせる受賞リストとなった。
その中で、作品賞、監督賞、主演女優賞、脚本賞、編集賞の5部門を制したのが『ANORA アノーラ』である。監督のショーン・ベイカーはデビュー作『Four Letter Words』(2000年 / 日本未公開)でキャリアをスタートした。同作は1991年のニュージャージー州を舞台に、同窓会のパーティーで再会した男性たちが、女性、セックス、童貞喪失などについて赤裸々に語り合うドラマで、すでにこの頃から、彼の作品に欠かせないセックスを巡る冒険譚と生々しさが表れていた。
ベイカーが映画の中で愛情を注いで描く人物は「頼るのは自分の身ひとつ、与えられた肉体で日々をサバイブする、何も持っていない人々」である。自家用車も自宅も持たない境遇の人々は、おのずと移民やセックスワーカーという職業を選ぶことが多くなる。長編2作目の『Prince of Broadway』(2008年 / 日本未公開)はNYのブロードウェイでブランドのコピー商品を売りながら暮らす不法移民であるガーナ人の若者が突然、元カノから自分の子どもだと赤ん坊を押し付けられ、右往左往する物語。随分と日本語タイトルがひどい『チワワは見ていた ポルノ女優と未亡人の秘密』は、若さと時にセクシャルな装いを武器にするしかない女優が孤独な老女とあるきっかけで交遊していく物語だ。

人生の思わぬ出会いがもたらすつかの間の高揚感は、ベイカー独特の世界観を織りなすようになる。日本で彼の名が大きく発見されるに至る『タンジェリン』(2015年)は実際にトランスジェンダーであるキタナ・キキ・ロドリゲスとマイヤ・テイラーを女優として起用し、2人がアルメニア系タクシードライバーとともに、浮気をした恋人を探し回る物語。アナモレンズを装着した3台のスマートフォンで至近距離から映した映像は常に身近で軽妙で、ビターな境遇なのに照明で作った陰影がない分、登場人物の日常がフラットに切り取られ、重い話をポップに描く『ANORA』の種がすでにここに見てとれる。また、日本でその名を知らしめた『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』は、夢の国ディズニーランドのすぐ傍のモーテルで、その日暮らしの生活を送る若い母と幼い娘の日々を切り取り、貧富の格差を見せつけるが、その構図も『ANORA』でのセックスワーカーとロシアの富豪の格差のある恋愛劇へと引き継がれる。『ANORA』はそういう意味で、ベイカーのある種の到達点ともいえる。『フロリダ・プロジェクト』の後に発表した『レッド・ロケット』も、商品価値を失ってしまった元ポルノ男優のその後の人生の苦さを取り上げ、『ANORA』のストリップダンサーへと続いていく。
アカデミー賞で脚本賞を受賞したとき、ベイカーはこうスピーチした。
「私はセックスワーカーコミュニティにも感謝を伝えたい。彼らは自身の物語を、人生の経験を、長年にわたって私に共有してくれました。心からの敬意を表します。ありがとう。この賞をあなたたちと分かち合います」と。
ただ、『ANORA』でのセックスワーカーの描き方についてはアメリカの批評では賛否両論となっている。
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『ANORA』はシンデレラストーリーなのか
ユニバーサルピクチャー日本版公式HPは、『ANORA』を「身分違いの恋という古典的なシンデレラストーリーを21世紀風にリアルに描き直した」と紹介している。本作の賞レースの快進撃は、遡ること2024年の第77回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞したことから始まる。審査員長を務めたグレタ・ガーウィグはインディペンデント映画からハリウッドのメジャー作品まで幅広く手掛け、常に女性像を現代的に、能動的にアップデートしてきた人物だ。彼女が発した高い評価は『ANORA』のアミュレットの役割を果たしただろう。とはいえ、彼女が評価の理由として挙げたのは、『ANORA』の展開が、「エルンスト・ルビッチやハワード・ホークスのようなクラシックな映画の構造を思い起こさせた」点だった。
グレタが注目したのは、常識にとらわれない登場人物が矢継ぎ早にテンポのよい洒落た会話を繰り出し、さらに、ジェットコースターに乗ったように、次々と予測のつかないことに主人公が巻き込まれるスクリューボールコメディとしての構図についてだった。この分野で思い浮かぶのは、ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)のロザリンド・ラッセルが演じる敏腕記者や、『教授と美女』のお堅い学者と出会うナイトクラブの歌姫だろう。また、ルビッチの『極楽特急』は富豪の未亡人に取り入り財産を狙う男の話だったが、『ANORA』では役割の性別が転換して展開していく。
1940年代のハリウッドで人気を博したスクリューボールコメディのヒロインは頭の回転が速く、男性と対等に渡り合い、危険に飛び込む好奇心や自立心、冒険心を持っている。これらの要素は『ANORA』でマイキー・マディソンが演じる主人公に色濃く反映されているといえるだろう。とはいえ、当時は、アメリカ映画製作配給業者協会が1934年から実施していたヘイズコード(映画内の非道徳的表現を自主規制する規則)の時代だった。そのため、性的な描写はご法度で、『ANORA』はその点では大胆に逸脱している。
ストーリーは、ニューヨークのナイトクラブでストリップダンサーとして働くアノーラが、ロシア語が少し話せることを理由に、ロシアの富豪の若者の相手に指名されることから始まる。彼に気に入られたアノーラは「契約恋人」として1週間、彼の豪邸で夢のような豪勢な消費生活に突入する。

この展開を、簡単に「恋」と形容するのは腑に落ちない。マイキー・マディソンが演じるアノーラというキャラクターには、常に醒めた姿勢や視線が見え隠れする。顧客に夢のような愉楽の時間を提供し、表面上は従順なようで、与えられた制限時間の中でいかに彼らに金払いを良くさせるか、財布のひもを緩めるだけのサービスを即座に提案できるかを瞬時に判断する、ドライで頭の切れる女性としてアノーラは造形されている。
これまでショーン・ベイカーが描いてきた、不器用で賢い生き方ができないセックスワーカーとは違い、アノーラは店のトップダンサーであり、次なるステップを虎視眈々と狙う25歳の女性だ。そこに現れたのがマーク・エイデルシュテイン演じる御曹司、イヴァンである。「イヴァン(イワン)」という名前は、ロシアの民謡や、トルストイの「イワンのばか」など、金に無頓着で、純朴で愚直な男として描かれることが多く、今作では両親の膨大な財産を無頓着に湯水のように使っていく。

アノーラとイヴァンの関係は、一貫してイヴァンが彼女との時間を買うことで成り立っていて、金銭的なやり取りで結ばれたもの。自身の売りどころを分かっているアノーラはイヴァンの気が変わらないようにうまく立ち回り、豪華な宝飾品や毛皮のコートを手に入れ、ロシアへの帰国に不安を覚える彼に自分と結婚して、アメリカ籍を得る提案をする。即座にその案に乗ったイヴァンはラスベガスの教会で衝動的な結婚に至る。高揚感に包まれた2人の結婚当日の狂騒の夜は本作のピークであり、その後、彼らはとんでもないすれ違いを繰り広げることとなる。

この映画では、イヴァンは表面的には享楽に溺れるバカな若者に見えるが、彼の両親は新興財閥、オリガルヒに属する一族であることは本人の口から最初に紹介される。ロシアのウクライナ侵攻以降、海外で暮らしていたオリガルヒが次々と謎の死を遂げていることを知っている観客からすると、イヴァンの今この瞬間のみの快楽に興じる姿は、ある種の時限爆弾を抱えて生きている人物でもあることが一目瞭然で、仮初めの結婚であろうと、おそらく彼が生涯で唯一度だけ、自分で決断し、誰の意志も介入することのない行動に出たことが見て取れる。ただのバカではない切なさをにじませるのは演者と演出の妙である。
