2026年に90歳を迎える名匠ケン・ローチ監督の最新作『オールド・オーク』が4月23日(金)より劇場公開となる。
同作が照射する労働者と移民を取り巻く現状は、日本に暮らす私たちにとっても全く他人事ではない。
新著『階級と「私たち」のゆくえ イギリス映画が照らす連帯の物語』が刊行されたばかりの河野真太郎(専修大学教授、20世紀イギリス文学・文化研究)に、『オールド・オーク』を起点にケン・ローチのフィルモグラフィを振り返りながら、ローチが一貫して描いてきた社会の問題について解説してもらった。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承ください。
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元炭鉱の村で、難民に向けられる排外的な感情
2023年にイギリスなどでは公開され、日本公開が待たれていたケン・ローチ監督の最新作にして、「最後」の作品『オールド・オーク』が、この度めでたく日本公開の運びとなった。この作品は北イングランドのある元炭鉱の村を舞台とする。主人公のTJことトミー・ジョー・バランタイン(デイヴ・ターナー)は、この村の労働者たちが集うパブ「オールド・オーク」を長年経営しているが、炭鉱という産業が去って凋落する村と共に、このパブも、そしてTJ自身もくたびれ果てた様子である。
そんな村に、シリアの内戦の戦火を逃れた難民たちがやって来る。イギリス政府は人道的な観点から難民受入れを進めており、このような事例は珍しいものではない。だが、貧困にあえぐ村の人びとの一部は、難民たちに排外主義的な目を向ける。
TJは排外主義者にカメラを壊されたシリア難民の女性ヤラ(エブラ・マリ)を助けたことから、難民たちとの交流を始める。だがその一方で、パブの常連たちは「村とパブは自分たちのものだ」と、排外主義的な感情をつのらせていく……。
そのキャリアの始めから、労働者階級を中心としてイギリス社会の変遷とその問題を見つめ続けてきたケン・ローチの、まさに集大成と言える作品である。そこで本稿では、この作品がどのような意味で「集大成」であるのかを、ケン・ローチ作品のこれまでと、それが見つめてきた20世紀イギリス史を紹介することで示したい。『オールド・オーク』の観賞体験がそれによってより深まることを期待している。
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ケン・ローチが見つめてきた労働者のイギリス現代史
ケン・ローチは1936年生まれ。1963年にBBCに入社し 、テレビドラマの演出を手がける。1967年に『夜空に星のあるように』で長編映画監督デビューを果たし、1969年の『ケス』では英国アカデミー賞の作品賞と監督賞にノミネートされる。だがその後、保守党とその政治が優勢となった1980年代は不遇となり、1990年代からは労働者階級や移民問題を描いた作品で国際的な評価を高めていく。アイルランド独立戦争を描いた2006年の『麦の穂をゆらす風』と2016年の『わたしは、ダニエル・ブレイク』で二度のパルムドール(カンヌ国際映画祭最高賞)を獲得した。

ケン・ローチの歩みは、20世紀後半から21世紀のイギリス社会の歩みそのものだったと言っていいだろう。それは、一方では労働者階級のコミュニティとその連帯が生み出され、同時にそれが解体していった歴史であり、他方ではイギリスがグローバリゼーションの波にもまれつつ多民族・多文化社会化し、それへの反動として排外主義に覆われていく歴史でもあった。
ローチが見つめた戦後イギリスの歴史について知るには、ほかならぬローチ自身によるドキュメンタリー映画『1945年の精神』(2013年)を観ていただくに及はないだろう。1945年とは、労働党が史上初めての単独政権を獲得した年である。労働党は、NHS(国民健康サービス)による医療の無料化、手厚い国民保険、教育改革、さまざまな産業の国営化などを軸とする福祉国家の建設に乗り出した。それは、それまで搾取の対象となり、とりわけ不況の1930年代には高い失業率や貧弱な医療、衛生状態に苦しんだ労働者階級の勝利であった。
だが、1979年にマーガレット・サッチャーが首相になると、そのような成果は解体されていった。サッチャリズム、もしくは新自由主義的な政策は、産業の私営化、教育や医療の市場化を進めていった。その精神は、「個人と自己責任における選択」である。私たちが苦境に陥ったとして、それは自由な選択の結果であり、国家に依存することは許されない。
サッチャーが新自由主義政策を進めるにあたって重視したのが、労働者階級の連帯の解体であった。1984年には不採算炭鉱の閉鎖を宣言し、それに対して炭鉱労働者たちが起こした争議を徹底的に弾圧した。ストライキは1年続き、労働組合は徹底的に叩きつぶされた。その後イギリスはトニー・ブレアらの労働党政権があったにもかかわらず、新自由主義路線を大きく変更することはなかった。
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労働者の連帯が失われた新自由主義の現在
ちなみに『オールド・オーク』の舞台はダラム近郊のイージントンである(設定としては架空の村であろうけれども、劇中に登場する写真にその地名が見える)。ここは、スティーブン・ダルドリー監督の映画『リトル・ダンサー』(2000年)で「エヴァリントン」としてロケ地となった村だ。『リトル・ダンサー』の物語は1984〜85年のストライキを背景としており、『オールド・オーク』がそのストライキの結果炭鉱が閉鎖され(実際のイージントン炭鉱の閉鎖は1993年)、労働者たちの連帯が失われた現在を描いているのは感慨深い。

1990年代以降にケン・ローチが作品を通して見つめてきたのは、この新自由主義の現在である。例えば2001年の『ナビゲーター ある鉄道員の物語』は、鉄道の私営化がもたらした悲劇を主題とする。実際、1990年代には私営化による「合理化」を遠因とする大きな鉄道事故がイギリスでは生じていたが、この作品はそのような現実を世に問いかけた。2010年代のイギリスは「緊縮財政」の時代であった。緊縮とはつまり国家財政の縮小、実質的には福祉予算のカットのことであり、それまでの新自由主義路線の過激化である。その緊縮の時代にローチが世に問うたのが、『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)と『家族を想うとき』(2019年)だった。前者は失業手当の支給に高いハードルを設けるいわゆる「水際作戦」が、老いた大工にもたらした悲劇、後者は「自由化」されたギグワークやゼロ時間契約労働(契約労働で、最低労働時間を保証しないでいいという制度)が現代の分断された労働者たちを追いつめていく様を厳しい眼差しで描いた。
『オールド・オーク』が描く、労働者の連帯を失った元炭鉱の村は、サッチャリズム以降のそのような歴史の果てにある。そしてこの作品のもう一つの主題は、そのような労働者階級コミュニティをむしばむ排外主義の問題である。この作品は2016年、つまり英国のEU離脱の国民投票の年を舞台にしている。ナイジェル・ファラージ率いる排外主義政党の英国独立党(UKIP)と保守党のボリス・ジョンソンによって先導されたEU離脱キャンペーンは、『オールド・オーク』で描かれるような地方の貧しい労働者階級に、移民労働者が彼らの仕事を奪っているというプロパガンダを浴びせ、彼らはそれに応えてしまった。この映画がまずは描くのは、そのような労働者階級の姿である。
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現実への絶望と同時にあり続ける、人間への深い信念
ローチは移民労働も常にひとつの主題としてきた。アメリカを舞台とする『ブレッド&ローズ』(2000年)はメキシコからの移民労働者を主題としたし、『この自由な世界で』(2007年)は、移民労働者の斡旋業者というグローバル新自由主義の手先に、その同じ新自由主義に苦しんでいるはずのシングルマザーがなるという悲痛な物語であった。
さて、では私たちは、ケン・ローチの最後のアンサーと言うべき『オールド・オーク』を、労働者階級の連帯の徹底的な分断と、労働者階級による排外主義という絶望のみを提示するものとして見るべきだろうか。本編を見ていただければ分かる通り、決してそんなことはない。この映画には、現実に対する深い絶望と同時に、それでも人間への信念、どれだけ分断や冷笑がはびこっていようとも、人間の社会をつなぎとめるのは人間の善意であるという深い信念もまた伝えるものになっている。

では、現代における連帯にはどのような形があり得るのか。それを考えるためには、ここまで述べたのとは少し違うパースペクティヴで20世紀から21世紀の「労働者階級」を見ていく必要があるだろう。ここから先については、より詳しい議論を近刊の拙著『階級と「私たち」のゆくえ イギリス映画が照らす連帯の物語』(フィルムアート社)で展開したのでぜひ読んでいただければと思う。
私たちが知るべきなのは、労働者階級の連帯の解体はサッチャリズムより早い段階で生じていた、より長いプロセスを持っていること、そして、イギリス労働者階級には、排外主義どころか反・排外主義の伝統も確実に存在していることである。