『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』から3年。待望の続編『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』が遂に公開された。
キノコ王国でピーチ姫を助けながら平和に暮らしていた配管工の双子、マリオとルイージ。本作で彼らが飛び出すのは、文字通りの「宇宙」だ。新たな相棒・ヨッシーとの出会いや、クッパJr.の邪悪な野望、そして謎多きロゼッタの登場など、スケールアップした冒険がスクリーンいっぱいに描かれる。
しかし、このエンターテインメント大作の奥底には、前作以上に深く、そしてスリリングなテーマが横たわっていた。本作が真に描こうとした「プログラムからの反逆」、そしてキャラクターたちの「実存」について、映画におけるSFの王道構造や「マリオ劇団」という任天堂の哲学から紐解いていく。
※本記事には映画の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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「重力」の地上から「無重力」の銀河へ
全世界興行収入13億ドル超というメガヒットを記録し、任天堂が本格的なアニメーション制作に乗り出した記念碑的作品、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(2023年)。誰もが知る超人気ゲームの映画化でありながら、この作品の根底に流れていたのは、意外にも移民と難民という極めてハードなテーマだった。
マリオとルイージの兄弟は、ニューヨークのブルックリンに暮らすイタリア系移民。アメリカンドリームを夢見て、自分たちで配管工のビジネスを立ち上げるものの、なけなしのお金で作ったCMはバカにされ、元上司からは見下され、実の父親にまで呆れられてしまう。何者かになろうと必死にもがく彼らは、世間から冷ややかな視線を浴びせられていた。
キノコ王国を治めるピーチ姫もまた、難民としての深い孤独を抱えている。幼い頃に見知らぬ世界に迷い込んだ彼女には、自分のルーツについての記憶がまったくない。キノコ族に保護され、仲間として温かく迎えられた彼女は、やがて女王としてこの国を統べることになる。だが、国中からどれほど愛されようとも、「自分が何者なのか」という根源的な問いが消え去ることはない。

ブルックリンで自分の価値を証明しようともがく移民の兄弟と、故郷の記憶を持たない難民の女王。そんな彼らが手を取り合い、悪の帝王クッパを打ち倒すからこそ、前作は「自分の居場所を探求する物語」として観客の心を打った。世間に認められたことで、マリオたちは自分たちを縛り付けていた偏見や差別から、ついに解き放たれたのだ。
そう考えると、今作の『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』(2026年)が舞台を宇宙へと移したことには、非常に大きな意味がある。彼らを縛り付けていた息苦しい地上の「重力」は断ち切られ、上も下もない、あらゆるしがらみが消え去った「無重力」の銀河へ。この無限の空間への跳躍は、世間のレッテルから解放された彼らが、自分たちの本当のルーツをまっすぐに見つめ直すための必然的なステップだった。
舞台のスケールが無限に広がったからこそ、物語は逆に姉妹や親子といった、彼らを強く繋ぎ止める、確かな家族の引力へと向かっていく。クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』(2014年)が、時空を超越する親子の愛を描き出したように、広大な宇宙空間とパーソナルな家族の絆の対比は、SF映画における王道の構造。本作もまた、その堂々たる系譜へと見事に足を踏み入れているのだ。
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交錯する3つのファミリーヒストリー
前作でピーチは、「自分がどこから来たのか分からないの」とマリオに告白していた。この続編はその言葉をまっすぐに拾い上げて、ドラマの中核に据えている。「よそ者が居場所を探す物語」から一転して、「失われた家族の絆を取り戻す物語」へと力強く舵を切っているのだ。
その新たな鍵を握るのが、新キャラクターのロゼッタ。ほうき星の天文台に住み、親のいない星の子供たちのお母さんとして優しく振る舞う彼女もまた、心の奥底に孤独を抱えた存在だ。広大な宇宙の旅の末に、ピーチはこのロゼッタと運命的な出会いを果たし、彼女こそがずっと探し求めていた実の姉であることを知ることになる。

実にドラマチックな展開だが、この「ロゼッタとピーチは姉妹だった」という設定は、決して映画を盛り上げるために用意された後付けではない。Wii用ソフト『スーパーマリオギャラクシー』(2007年)を開発していた当時から、マリオの生みの親である宮本茂とディレクターの小泉歓晃の間で、二人の関係性について何度も議論が交わされていたという。当時はゲームのコンセプトとの兼ね合いもあって結論が出なかったものの、宙に浮いていたそのアイデアが、およそ20年の時を経て結実した。
本作のファミリーヒストリーは、ピーチとロゼッタ姉妹だけではない。マリオとルイージ兄弟はもちろんのこと、クッパとクッパJr.が繰り広げる親子ドラマも並行して語られる。クッパJr.は、父が残した悪の美学を継承しようと必死だ。まだ幼い身でありながら新たなカリスマとして振る舞い、父親の救出に奔走する。そしてクッパは、「自分は本当に息子に誇れる父親だったのか?」と、真剣に悩み始めてしまう。

この父子の物語を裏からガッチリ支えているのが、『スターフォックス』のフォックス・マクラウドだ。これまで任天堂は違うゲームのキャラクターを交わらせることを慎重に避けてきたが、今回はなんと宮本茂自らが社内を説得して回り、このクロスオーバーを実現させたという。
俳優のグレン・パウエルが熱望して演じたフォックスは、亡き父の遺志を継いで宇宙を飛ぶ息子というキャラクター。幽閉された父を救おうと奮闘するクッパJr.の境遇とピタリと重なり合う。立場は正義と悪で違えども、どちらも偉大な父の背中を追う息子なのだ。この合わせ鏡のような関係性が、父と子というテーマに深い味わいを与えている。
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「マリオ劇団」の哲学が暴く本当の闘争
ここでいきなりちゃぶ台をひっくり返すようだが、本当に『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』は、ハートウォーミングなファミリードラマとして捉えていいのだろうか? 無重力の宇宙へと飛び出した彼らが直面したのは、もっと根源的な問題ではないだろうか? この作品には、「ゲームキャラクターとして決められたプログラムから抜け出す」という裏テーマが隠されているような気がしてならない。
思えば彼らは皆、何十年もの間、強固な役割を背負わされてきた。マリオは何度でも立ち上がって勝利する無敵の主人公であり、ルイージは常に兄をサポートする2Pキャラ。そしてピーチは、迷うことなく国を導く完璧な女王。彼らはこれまで、与えられた設定の中で生きてきた。
この宿命に最も抗おうとしているのがクッパだろう。今作の彼は、盆栽の手入れや絵画に没頭。一生懸命描いた絵をマリオに「駄作」と一刀両断されると、思わず「そのヒゲを焼きつくしてやろうか!」と激怒するものの、「こりゃすまん、ついつい昔のクセが」とすぐに反省する。声を演じたジャック・ブラックが「今作のクッパは殻(甲羅)を破ろうと奮闘している」とコメントしているように、彼は「何度倒されてもピーチをさらい続ける悪の親玉」という終わりのない役割に嫌気がさしている。

このクッパの葛藤を読み解く上で欠かせないのが、任天堂に初期から根付いている「マリオ劇団」という独自の哲学だ。生みの親である宮本茂もたびたび公言している通り、マリオやクッパたちは固定された敵味方ではなく、いわばひとつの劇団に所属する俳優たちとして設定されている。だからこそ、命懸けの死闘を繰り広げた後でも、別のゲームでは共にカートで走り、テニスやゴルフを和気あいあいと楽しむことができるのだ。
そう考えると、劇中でクッパが息子のために人形劇を自作自演で披露する場面は、非常に深い意味を帯びてくる。彼は自分が「マリオという巨大な演目の中で、長年悪役のお芝居をさせられていること」に自覚的になり、あてがわれた大舞台から自らの意志でそっと降りようとしているのではないか。
与えられた役割を越え、本当の自分を見つけようとする切実な闘争。それこそが、『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』の奥底に隠された真のテーマのように思える。
