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まるで文化祭? 中野の商店街で呼び込み
中野駅からサンモール商店街や、ブロードウェイを通り抜け、しばらく歩いていくと、薬師あいロードという小さな商店街に入ります。居酒屋や古本屋などが並ぶ雰囲気のいい通りにその日、響いていたのは「演劇はいかがですかぁー!!」「演劇やってまぁーす!!」という呼び込みの声。この商店街にあるフリースペース「水性」で、2025年12月、「ザジ・ズー」という演劇チームによる公演が上演されていました。
「いらっしゃいませー!!!!」
舞台上には、10人あまりの出演者がすでに待機していて、お出迎えをしたり、踊ったり、雑談をしたり、観客に対してチョコレートを配ったりしています。どうやら写真を撮ってもいいらしいのですが、スマートフォンを向けようとすると、出演者たちがポーズを撮ってカメラ目線に。さも「わたしを撮れ」と言わんばかりです。
圧が強い……。
まるで、高校の文化祭に迷い込んでしまったかのよう。舞台の飾り付けは、舞台美術というよりもホームパーティのような趣です。ほとんど手作りといっていいような雑然とした空間には、ただただ、圧倒的なエネルギーしかありません。そもそも、開演時間が近づくにつれて埋まっていく客席は満席の様子。呼び込みをしたところで、どうやってこれ以上観客を詰め込めるのか……?

2022年結成。複数の劇作家 / 演出家 / 俳優で集い、「アガリクスティ・パイソン」という名義で、時には個人名で、お互いの演劇観を交感し創作する集団。銘々が自立した作り手としての意識を持ち、「遊び」という思想のさねをどっかその辺に据えながら融合と分離を繰り返す。集団の姿勢としては「個と場」を最も尊重し、現代美術、服飾、音楽、スポーツなどに明るいそれぞれが、その時着たい服を着替えるように楽しみながら、公演形態や作風を変様させる。それらに加え赤テントや維新派、能など、空間的変化がもたらす上演スタイルにも着目し、劇場のみならず、家、BAR、屋外など様々な場所での上演を試みている。また、コロナ禍において「集まる」ことに対する個々の思惑もまた変様しつつあり、そうした動向をあまさず拾い上げ観察していくことで、集団という生活形態を再考する。
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正体不明の団体、その名は「ザジ・ズー」
ザジ・ズーは、多摩美術大学に在籍する学生たちのシェアハウスから始まりました。2022年の結成から4年目、これまでに日本全国で公演を行いつつ、「ヤバい」集団としてその知名度を拡大。コアメンバーとなるのは俳優やプロデューサー、劇作家など8人ですが、誰がどの役割を引き受けるかは流動的になっています。「劇団」というよりも、「コレクティブ」という言葉のほうがイメージに近いでしょう。
そして、これらのメンバーのほか、ザジ・ズーの「構成員」にカウントされるのは次のような人々であるといいます。
俳優、劇作家、演出家、舞台美術家、ダンサー、振付家、制作者、衣装家、照明家、音響家、ニート、現代美術家、大学教員、バンドマン、社会人、チンドン屋、ラッパー、フリーター、映像作家、デザイナー、高校生、批評家、マジシャン、画家、スイマー、DJ⋯⋯。
ザジ・ズーの開設しているDiscordには2026年1月時点で136人もの人々が加入しており(どうやら、ここに加わると「構成員」とされるらしい)、劇団であると同時に、ネットワークでもあるというザジ・ズー。自らのことを「文化的海水浴場」という、なんだかよくわからない名前で表現しています。

とにかく、実態が不明なのだけれども、何もかもが過剰で、やたらと勢いがあるかれら。そして、そこには観客だけでなく、多くの人々が集っていて、そのコミュニティにはまるでお祭りのような熱が渦巻いているのです。


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『ザジ・ズー現代贋作劇場』の、参考にならないあらすじ
では、この日上演された『ザジ・ズー現代贋作劇場』は、どのような作品だったのでしょうか? まず、かれらのホームページに書かれたあらすじを読んでみましょう。
古代ローマ。五万人の円形闘技場で「ブラッディ・スポーツ」が熱狂をさらっていた。演劇よりも死闘を――死刑執行すらショーとなる時代。ひとりのグラディエイターが息絶え、魂は肉体を離れて幾千年の漂流へ。暗黒時代をさまよい、産業革命を眠り過ごし、やがて目覚めたのは1986年6月、代々木体育館――。嘘八百!世紀のブルシット演劇史、ついに開幕
ザジ・ズー 公式ホームページより
時空を飛ぶ冒険活劇のようなストーリー。しかし、かれらがほんとうに恐ろしいのは、このあらすじに書かれていることが、「なに一つとして」行われていないこと。なに一つとして!
当日上演された作品の中に、古代ローマの要素はどこにもないし、グラディエーターが息絶えるどころか、そもそもそんな人は出てこない。代々木という単語すら使われることはありません。作品が完成する前に、宣伝のためにあらすじを提出しなければならないのは演劇の常ですが、ザジ・ズーの人々には「ちょっとくらい寄せておこう」という配慮すら微塵もないのです。
ふざけている(いい意味で)。
気を取り直して、上演された内容を見ていきましょう。劇団四季の創設者である浅利慶太をモチーフにして、その著書からも引用を行った(けれども、まったく似せる気がない)『浅利慶太物語』から始まり、ジャン・ミッシェル・バスキアと星野源が邂逅する一人芝居『夜、バスキアの夜』、KinKi Kidsが主演したドラマ『ぼくらの勇気 未満都市』(1997年)の話を聞いて、見てないけどなんとなく面白そうだという理由からタイトルだけ借用した『ぼくらの勇気 視線交錯都市(注:ガン飛ばシティと読む)』など、全体がゆるくつながりつつ、独立したストーリー群がオムニバスとして上演されていく。その語り方も、俳優による熱演はもちろん、段ボールでつくった人形劇、着ぐるみのティラノサウルスが大暴れするもの、手作り感あふれる映像など、あらゆる手法がふんだんに盛り込まれたりしていました。


そんないくつもの物語を貫くのが、徹底したパロディーの数々。『ぼくらの勇気 未満都市』のみならず、『ドラえもん』『キャッツ』『牡丹と薔薇』『開運!なんでも鑑定団』『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』『No No Girls』『ざわざわ森のがんこちゃん』『君の名は。』など、内容、年代、ジャンルを問わず、さまざまなコンテンツがパロディーの対象となっていきます。そこでは、元ネタを知っている観客はもちろん、知らない観客もまた、圧倒的な熱量に飲み込まれてしまう。作 / 演出には、「アガリクスティ・パイソン」という名前がクレジットされているけれども、これはひとりの作家のペンネームではなく、ザジ・ズーの人々が集団でつくったアイデンティティ。統一感や脈絡といった概念を完全に無視しながら、あらん限りにパロディーを盛り込んでいるのです。


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ラストシーンにあった、ザジ・ズーのユニークさ
では、いったい、かれらは何のためにパロディーの乱れ打ちをするのか?
作品からは、前説で語られているように「(演劇の)本来の面白さを一人でも多くの人に伝えたい」とか「疲弊しつつある日本の演劇を、未来へとつなげたいという願い」といったテーマを読み取れる部分もあります。けれども、その言葉をほんとうに額面通り受けとってもいいかというと、少し怪しい。
冒頭に語られる「若者の演劇離れが加速していく中、かれらに向けた作品が必要だと感じます」という言葉や、ラストシーンで語られる「あなた方が今日観に来たのは贋作ですか? それとも真作ですか?」という言葉も、マジメに受け取っていいものでしょうか? もちろん、それらの言葉は、ただの冗談ではなく、かれらにとってひとつの本心でしょう。でも、そんな真摯な態度を受けて、かれらの才能を「エネルギッシュで笑えるんだけど、意外とマジメに考えている集団」というありがちなフレームに収めてしまことは、かれらを「疲弊しつつある日本の演劇」に押し込めてしまうだけではないでしょうか?
かれらは、そんな退屈な存在ではありません。そう断言できるのが、このラストシーンにおいて言葉にされていなかった態度が、とても魅力的だったからでした。そこにこそ、かれらのユニークさがあります。

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ローションまみれで中野の商店街へ。過剰なエネルギーと日常の風景の共存に必要なのは「交通整理」
少し、丁寧に解説していきましょう。
小劇場演劇のなかでは伝説の作品として知られる劇作家 / 演出家である太田省吾の『水の駅』。一本の水道に集まる人々の生を、とてつもなくゆっくりとした動きで表現したこの作品は、世界的に知られる名作です。かれらは、このパロディーとして、水道から流れる水をローションに置き換えて上演。俳優たちはゆっくりとした動きを維持しようとするものの、撒き散らされたローションに足を取られてずっこけてしまいます(元ネタを知っている人間にとっては、それだけですでに最高です)。

そして、ローションまみれとなったかれらは、それまで閉ざされていた劇場のシャッターを開け、ゆっくりとした動きのままに劇場の外へと出ていきます。



そこには、中野の商店街を行き交う人々。もちろん、衣装を身に着け、ローションまみれになり、ゆっくりとした動きで道路を横切るかれらの存在は、平穏な日常に現れた「異物」として注目を引くもの。しかし、この異物たちは、演劇とは関係がない通行人にとって、邪魔以外の何物でもありません。
すると、何人かの俳優が演技を一時停止し、歩行者や自転車が通れるように交通整理をはじめました。
唐十郎や寺山修司といった往年のアングラ演劇であれば、きっと「通行人など関係ない!」と言わんばかりに自らの存在を主張し、その表現を貫徹させるでしょう。あるいは、過激なパフォーマンスアーティストであれば、日常への「介入」という大義のもと、一般市民の迷惑を顧みずにパフォーマンスを続行するかもしれません。なぜならば、「過剰なエネルギーを撒き散らし」、「日常を揺さぶること」が、かれらの目的なのだから。
でも、ザジ・ズーは、眼の前に広がる日常を揺さぶらない。むしろ、その過剰なエネルギーと、日常の風景とを両立させるために、パフォーマンスを一時中断して、交通整理をはじめます。演劇をやりたい、でも迷惑をかけずに。劇的な場面を日常に誘い込みたい、けど邪魔にならないように。

「日本は少子化と貧困で終わっていくので今後の目標は生存です」。
このセリフは、ザジ・ズーのメンバーらと同年代にあたる映画監督・山中瑶子が、『ナミビアの砂漠』のなかで使っていた象徴的な言葉でした。日常を営み、生存を続けることそれ自体が難しい2020年代中盤のリアリティにとって、旧来型の「日常を揺さぶる」ような態度は急激に意味を失いつつあります。今、切実なのは、日常を揺さぶる革命ではなく、「生存」を実行し続けることです。

そのような補助線を引くと、ザジ・ズーの作品が、違う角度から見えてきます。
シェアハウスという日常から活動を開始したかれらは、共通言語であるパロディーを通じて熱量の高い表現を打ち立て、抜き差しならない日々を生存します。しかし、かれらは、かれらの生存の周りにも、無数の生存があることを知っている。だから、きちんと交通整理をして、誰かの生存とわたしの生存とが両立するようにする。それは、表現がぶれているわけでもないし、単純に「いい人」だからやっているわけでもありません。それは、ザジ・ズーの示す「共存」のかたちではないでしょうか。


