INDEX
プロデューサーからアーティストへの変貌
―音楽との出会いはどんな形でしたか?
小袋:小学校2年生か3年生の頃に子供用のギター買ってもらって、そこから練習するようになって、自作のスクラップ・ブックで好きな曲の歌詞とコードを書いて、自分でファイルにまとめて練習してました。中学の文化祭でギターを弾いたり、そこからCDの貸し借りとかするようになったし、TSUTAYAで1位から10位までCDを全部借りてMDに入れてずっと聴いてましたね。
中2か中3ぐらいの時にiPodが出てからは洋楽に触れる幅が一気に広がって、Oasis、AC/DC、Iron Maidenを聴くようになりましたね。Sigur Rós、Olafur Arnaldsとかは高校ぐらいの時かな。大学1年生でブラックミュージックに目覚めて、Raphael Saadiq、Jamiroquaiにめちゃくちゃハマって、Acid JazzからのJazzanovaとかJazztronikとか、あっち系にどんどんいって。
20歳ぐらいの時James Blakeに辿り着いて、衝撃を受けました。今同じ時代で鳴ってる新しい音楽があるんだってことに気づきましたね。ちょうどDisclosureが流行り始めてて、FKA twigsが新譜出したのはその頃だったかな。そこからXL Recordings周りのワークにドハマリして、SBTRKTやSamphaが出てきて、そしてFrank Ocean、Odd Futureも。「ヤバイな、これは俺もやらなきゃ、音楽やりたい」ってなりましたね。
―ここまで聞いてると、同じ世代だから一緒の音楽遍歴ですね。
小袋:そう、同じ世代の音楽好きなら多分通ると思う。そこからだんだん、ハウスミュージックとかテクノにも触れ始めて、24~25歳ぐらいまで特に雑食でした。今でも雑食だけど、28歳でイギリスに行ってそこからレゲエとかダブとかも知って、ハウスミュージックや、テクノの本場を知って。レコード好きの連中に会って情報交換してたら、俺も相当な音楽好きなんだなってことに気づいた。ロンドンを中心にした、端の端にいるレコード好きな連中と、一緒に話が通じることの嬉しさ。そこから俺が知らなかったソウルとかブルースの世界にハマって今に至るって感じです。

―1st Album『分離派の夏』をリリースした時のインタビューで、表現者としての道を志すきっかけは、「突然雷のようなモノに打たれた」と書いてあって……
小袋:大学卒業してから、音楽があまりにも好きだったから、音楽に携わる仕事がしたくて、レコードレーベルを立ち上げたり、他の人をプロデュースしたりっていう仕事をずっとやってました。自分が何かを表現したいというよりは、自分の知識やスキルを使って、いろんな人が良い音楽を作れたら良いなと思って。それが喜びだったんですよね。でも、26歳ぐらいで突然「何か自分で残さないとダメだ」って思った瞬間があって。宇多田ヒカルさんの『Fantôme』に参加したり、トップレベルの人たちと仕事した時に、その人達のアーティスト精神に触れて、俺も何か残さなきゃって思ったんです。
そこからマインドをガラッと変えて、アーティストとしての自覚や、自分でクリエイトすることに喜びと使命感みたいなものを感じるようになりました。そもそも歌ってるだけで自分で曲作ってない人、パフォーマンスに徹してる人達の音楽に全然感動しなかったんですよね。いざ自分が作る側にまわって、自分でも感動しない音楽を作って「続かないな、この仕事」って思ってしまって。だったら自分でやろうと。
でもデビューした時は全然実力もないし、大した人間じゃないんだけど、メジャーレーベルの力のおかげで色々テレビとかも出させてもらえて、本当に良い経験をしたんだけど、同時に自分の実力のなさと世間との期待値とのギャップから「えっ?」と思うようなことが多々あって。売れようって思ったことは未だに一度もないわけ。売れようと思ったら、自分が格好よくないと思ってる人たちとも絡まなきゃいけないじゃん。会ったこともない人に嫌われなきゃいけない、その対価として大きい何かを得るんだろうけど。俺、イヤだったんだよね。嫌われたくないとかじゃなくて、格好いいやつに格好いいって言われたいので。格好いいやつに格好いいって言われることが、俺の喜びなわけ。俺がかっこいいモノを作ってるんだから当たり前じゃん。それが今でもずっと変わってないの。そしたらこんな感じになっちゃった(笑)。
現状はすごくありがたいなって思います。滅多にアルバムを出さず、2年に1回しかライブやらないで、それでも6000人の人が来てくれて。ライブでもお客さんが(スマホで)映像を撮らない、そんなコミュニティないじゃん。それはすごいことだなって思う。本当に恵まれてるなって思います。