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『FESTIVAL de FRUE』が媒介する、世界中の歌うたいたちの地下水脈
ー錦糸町の河内音頭大盆踊りでは舞台上の音頭取りが河内音頭を歌うわけですが、踊り手は歌の内容がわからないまま踊っていますよね。その状態って先ほど折坂さんが言っていた「言葉に頼らず、歌を通して意味が伝わっていく」状態に近い気がしてきました。
折坂:その話を聞いて思い浮かんだんですけど、私は弾き語りとしてはジョアン・ジルベルトがひとつの到達点な気がしているんですよ。自分はボサノバフリークってわけじゃないんですけど、ボサノバってカーニバルで演奏されているサンバのリズムを、ひとりの身体に落とし込んでいる部分があると思うんですね。
私は子どもの頃から集団に対する苦手意識があるんですけど、お祭りの参加者は個人でも集団でもあって、そこに心地よさがある。祭りを通じて感じた心地よい集団の体験を音楽に落とし込みたいと思っているし、ボサノバしかり、そういうものが好きなんだと思います。

ーその感覚はEnjiの歌にも表れている感じがします。集団で育んできたものが、ひとりの身体と声を通じて表現されている。
折坂:そうなんですよ。Enjiさんのアルバムは基本的にシンプルな楽器構成で演奏されていますが、歌の持つ表情や情報みたいなものが大きな位置を占めていて、どんな小編成でやっていてもいろんな音が聴こえてえてくる。
もちろんプレイヤーも本当に素晴らしいんですけど、Enjiさんの歌声にいろいろな記憶や感覚が出汁のように溶け込んでいるからこそ、そう聴こえるんだと思います。
ー最新作『Sonor』(2025年)では、“Eejiinhee Hairaar”というモンゴルの伝統曲が歌われていますけど、あれも素晴らしいですよね。
折坂:あの曲もめっちゃかっこいいですよね。歌謡曲みたいなテンション感があって、あれだけちょっと毛色が違う感じがしました。
ー英語でジャズのスタンダードも歌ってますよね(“Old Folks”)。ジャズのスタンダードを歌っても、伝統曲を歌っても別ものではなく、地続きという感覚があります。そこも折坂さんと共通している感じがするんですよ。沖縄の民謡をやってもオリジナルをやっても、地下で同じ水脈が流れている感じがする。そして、その水脈を辿っていくと、モンゴルと(折坂が住む)千葉は繋がっていた! という感覚。
折坂:そうだったら嬉しいですね。モンゴルに限らず、いろんな場所で生まれる表現と地下水脈的に繋がることをときどき感じるんですよ。そこに表現をすることの希望があるし、『FESTIVAL de FRUE』は、そういう種類のものをひとつの場所で形にしようとしているじゃないかと思う。
折坂:2022年の『FESTIVAL de FRUE』ではサム・ゲンデルとブレイク・ミルズ、ピノ・パラディーノ、エイブ・ラウンズが出演していましたが、彼らの演奏を見てあまりに美しくて涙が出たんです。
別に涙がそんなに偉いと思ってないんですけど、演奏を聴いて、脳内に街角が現れたんですよ。夢の中によく出てくる寂しい場所みたいな、そういう情景が浮かび上がってきました。
ー面白い話ですね。
折坂:自分の記憶を辿ってもどこにもないものなんだけど、何か懐かしい場所というか。宮崎駿さんの『君たちはどう生きるか』(2023年)に海のシーンがありますけど、あれに似たイメージです(※)。全然違う文脈を辿っていった先の奥底に、同じ街があるという感覚。
世界の音楽を聴いていると、そういう感覚になることがあるんですよ。文化的には離れている場所の音楽なのに、なぜかそういう場所に辿り着く。その感覚を呼び起こすための黒魔術みたいなものとして『FESTIVAL de FRUE』というフェスティバルがある気がするんです。
※編注:作中に登場するこのイメージは「異界」の入り口で、民俗学者の畑中章宏はスイス出身の象徴主義の画家アルノルト・ベックリン(1827年–1901年)の作品『死の島』との類似性を指摘している
