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意味を超えて、情景と情感を伝える「歌」を信じている
折坂:最近よく考えるんですが、文字にしてやりとりするのと、実際に会ってその言葉を理解するのとでは、同じ文面でも受け取るものがまったく違うと思うんです。
声という空気の震えを聞いて理解するものがあるし、そこに歌のひとつの機能があると思う。Enjiさんも声を通じ、「生きている感覚」みたいなものが伝わってくるし、そこに自分も共鳴するんです。
ー精神や記憶を伝える「メディアとしての歌」という感覚?
折坂:そうそう。Enjiさんは歌の中でどういうことを歌ってるのか知らなかったので、確認したんですけど、想像していたものからそんなに外れていなかった。たまに起こることなんですけど、声の響きとかテンション感みたいなものを通し、言語に頼らず理解できることがあるんですよね。Enjiさんもそういうことを信じている感じがする。
ー折坂さんの歌もまさにそういうものですよね。意味を超えたところで伝わるものがあります。
折坂:そうありたいと思っています。弾き語りのときは、自分ひとりの身体から発するもので共鳴みたいなものを起こしたいと思っていて。『Ursgal』を聴いたあたりから自分自身の感覚も変わってきたし、「こんなふうに歌ってみたい」とも思いましたね。

ーEnjiはモンゴルの伝統歌唱法であるオルティンドーを幼少時代に身につけていて、現在の歌声でも、ときたまその影響を連想させる瞬間があります。折坂さんの歌唱にも浪曲や口上からの影響が感じられることがありますが、折坂さんはどのような意識のもと、そうした歌唱に取り組んでいるのでしょうか。
折坂:私はEnjiさんのようにバックボーンがあるわけではないし、ルーツとの繋がりは薄いほうで、そこがちょっとコンプレックスでもあって。じゃあ、なぜそういうものに気持ちが向かっているのか、未だにあまりよくわかっていないんです。
ただ、昔も今もお祭りは好きなんです。地元の柏でやっていた青森のねぶた祭りにも参加していたし、音楽活動を始めてから錦糸町の河内音頭大盆踊りにも行くようになりました。
そういう場所で鳴っている音楽って、「情景」のひとつでもあると思うんです。自分が見てきた情景や子どもの頃の思い出と同じカテゴリーであって、お祭りが終わるころ、遠くで音楽が鳴り響いているような情景が自分の中に蓄積している。そのイメージを自分の中に落とし込みながら歌うことによって、だんだん身体化していく……私は歌というものに対して、そういうヘンテコな入り方をしてるんです。