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「描かれなかった」オッペンハイマーの実像——「消された時間」に存在していた日本人研究者との交流
現在の物理学研究史によれば、終戦後の1945年8月末、「マンハッタン計画」に参加していた科学者たちは「ロスアラモス科学者連盟」を結成した。ここに参加したオッペンハイマーは、核兵器の危険性を訴える講演を行ない、アメリカ原子力委員会のアドバイザーなど政治的な影響力を持った高名な科学者の代表として、国連による核兵器の管理、米ソの協調による核の拡散の防止を目的に法律や政策の立案に積極的に携わろうとした(註12)。
戦後のアメリカが核兵器を将来的にも独占できるのだ、という楽観的な見方にもオッペンハイマーは反対した。1949年にソビエト連邦(現ロシア)が核実験を成功させたことによってアメリカ国内で高まっていった、より破壊力の大きい水素爆弾開発を求める動きにも反対し続けている。こうした核兵器開発に対する姿勢が、聴聞会にかけられ、彼が政治的に失脚する要因になるのだが、この映画では反戦、反核のためにオッペンハイマーが活動する描写は、原作の記述に対して控えめなものにとどまっている。

映画では「描かれなかったオッペンハイマー」とは、たとえば次のような人物だ。
オッペンハイマーとアインシュタインは、物理学者としては対立したが、ヒューマニストとしては同志であった。軍との契約に依存する兵器研究所や大学での科学者としての仕事が、冷戦下の国家安全保障のネットワークによって大口取引されている。このような歴史の瞬間において、オッペンハイマーは別の道を選んだ。科学のこうした軍用化が「始まっている現在」であるが、オッペンハイマーはロスアラモスに背を向けた。そして、その影響力を軍拡競争に歯止めをかけるために使おうとしていることに、アインシュタインは敬意を表した。
カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(中)原爆』(山崎詩郎監修、河邉俊彦訳、早川書房、2024年) P.397より引用
ここには軍事産業と政府の庇護のもとで「科学の軍用化」に従事することをよしとせず、むしろ科学者でありながら積極的に自ら政治的であることを引き受け、抵抗しようとするタフなネゴシエイターの姿がある。
それはどこか浮世離れして優柔不断にすら見えるキリアン・マーフィー演じる映画の主人公とは、ほとんど真逆の人物像だといってもいい。

この時代のオッペンハイマーについてもうひとつ重要な伝記的事実は、1947年に彼がプリンストン高等研究所の所長に就任していることだろう。彼はここで国際的な理論物理学者のネットワークをつくりあげ、世界中から客員研究員を招いている。
湯川秀樹や朝永振一郎といった日本人研究者もここに招聘されており、オッペンハイマーは彼らと直接的な交流を持っていた——そして、彼らの存在もまた、この映画においては台詞のなかにすら登場しない。