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等身大な日本を扱い、きわどい題材にも踏み込む『龍が如く』シリーズ
『龍が如く8』をプレイして「ひさしぶりに日本製RPGらしいRPGをたっぷり遊んだ」と嬉しくなった。クリアまでの時間は90時間超。仕事と生活に追われる社会人としては危険なボリュームだが、その蕩尽も惜しくない。小学生のとき、ジョブ(ナイトや白魔道士などの職業)やアビリティ(職業固有の能力)を習得するために夢中になって遊んだ『ファイナルファンタジーⅤ』を思い出す。
2005年から続く長寿シリーズである『龍が如く』は、しかし『FF』や『ドラクエ』とはまったく違う世界観のゲームだ。主な舞台になるのは歌舞伎町そっくりの繁華街・神室町や、横浜伊勢崎町そっくりの異人町など。メインの主人公は「堂島の龍」と呼ばれる元極道・桐生一馬で、彼がかつて属した広域指定暴力団・東城会を中心に、全国のヤクザや中国系・韓国系マフィアらとの血で血を洗う抗争がシリーズを通して描かれる。登場人物は次々と死に、麻薬や人身売買といったきわどい題材にも踏み込む。剣と魔法、愛や勇気とはおよそ無縁な大人のためのビデオゲームだ。


それまでのアクションアドベンチャーからRPGへとジャンルを一新した『龍が如く7』でこそ、勇者に憧れる主人公・春日一番が仲間と出会って友情を育み、巨悪に立ち向かっていくというジュブナイルファンタジーの定型をなぞっているが、春日は刑務所から出所して社会復帰を目指す元ヤクザだし、彼と冒険する仲間たちは、病院の薬を横流しして看護師免許を剥奪されたホームレスやワケありのキャバ嬢だ。彼らはそれぞれに人生のやり直し、一発逆転を願っている。見る角度を変えれば、等身大な日本を扱った、貧困や格差といったリアルな苦しみに立ち向かう「私たち」のための冒険譚ともいえる。
かといってゲーム全体はリアル一辺倒でもなく、他社の人気ゲームのパロディであるようなミニゲーム(スジモンと呼ばれるごろつきたちを捕獲して、スジモンマスターを目指すだとか)や、ロボットやUFOなどが登場する荒唐無稽なサブストーリーも豊富に用意されている。シリアスな本筋と、陽の気に振り切った脇道の奇天烈なバランス。それも『龍が如く』シリーズが愛され続けてきた理由だ。

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社会を騒がせた実際の事件や社会問題が頭をよぎる『龍が如く8』の時宜性
『龍が如く7』で採用されたターン性コマンドバトルのさらなる洗練や、反復作業になりがちな経験値稼ぎが苦にならない各種ゲーム設計のおかげで、本作『龍が如く8』は遊び続けるモチベーションがほとんど失速しない。また、リゾート島を復興・発展させる「ドンドコ島」や、街を爆走してフードデリバリーする「クレイジーデリバリー」といったミニゲームの面白さ・豊富さ(加えてバカばかしさ)も素晴らしく、シリーズ最高傑作と呼ぶにふさわしい完成度だ。そういったゲーム内での行動のほとんどがダイレクトにキャラクターの成長に反映されるため、ついつい時間を忘れてあちらこちらに寄り道してしまうが、メインストーリーの時代性・批評性も高い。
『龍が如く8』では主要な舞台を日本からハワイへも広げ、同地の政治・経済を闇から牛耳るマフィア、火炎崇拝の宗教団体が描かれる。かれらは日本の暴力団や政界・財界とも強いパイプを持っており、およそ10年前に起きた原発事故(作中で明言されないが、明らかに福島第一原発事故)の廃炉作業で生じる放射性廃棄物処理をハワイの離島で行う計画を極秘裏に進めている。その処理要員に充てられるのが、元暴5年条項(組織を抜けて以降の5年間、元暴力団員の就労や生活に関するさまざまな制約を課す制度)によって行き場を失った元ヤクザたちで、彼らをハワイに移送して廃棄物処理に従事させることで、核のゴミ問題と社会的弱者の就労を一挙に解決する棄民政策の行く末がストーリーの山場になる。それを後押しするための世論誘導に炎上系YouTuberを思わせる配信者や、一般人による私人逮捕のトレンドが利用されているのも生々しい。


旧統一教会問題で露呈した宗教と政治の癒着、放射性物質を希釈したALPS処理水の海への放出、暴露系YouTuberとして悪名を馳せたガーシーの逮捕……と、社会を騒がせた実際の事件や社会問題が頭をよぎる。開発期間に約4年を要した『龍が如く8』と、ここ数年のあいだに起きた事件の一致はほぼ偶然だが、ハワイを舞台に「現代の棄民」というテーマを描くとき、ハワイだけでなくアメリカ本土や南米各地に自国民を送り出した近現代日本の移民政策は意識にのぼったはずだ。
もう一人の主人公で癌におかされた桐生一馬の最期の物語という別の大きな主題のために、ハワイ移民史への踏み込みは足りない印象もある。だが日本の経済力が停滞し、インフルエンサーが「海外に出稼ぎしよう!」と経済移民を促すのも絵空事ではなくなりつつあるいま、『龍が如く8』が示す矢印は過去だけではなく未来にも向けられている。
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定番の批判を解決できずにいる、日本製大作ゲームの課題
ストーリーとゲーム性の両面で完成された『龍が如く8』だが不満はある。その一つがあまりにも冗長なムービーパートだ。これは本作に限らず、世界的に評価の高い小島秀夫の作品や『ファイナルファンタジー』シリーズなどにも向けられる定番の批判で、「映画とゲームは違うのに、操作できないストーリーをなぜ延々見せられないといけないのか?」といった声がしばしば寄せられる。こういった批判は、ゲームにおけるムービー制作が、映画芸術と同じように編集を通した物語の解体・再構築について意識的であれば起こらないものだろう。
『龍が如く8』のムービーは、そのほとんどが登場人物による対話劇で、かつ一貫して説明的だ。多くの日本映画やドラマがそうであるように、登場人物に言葉ですべてを説明させようとする脚本はもどかしく、意図的な飛躍や欠落による想像力の駆動をプレイヤーにもたらさない。芸術表象に必要な詩的感性は、ゲームらしいインタラクティビティの部分で十分に実現されており、その埒外に置かれたムービーの表現性の開拓に対するゲームクリエイターの関心は相対的に薄まってしまう……ということなのかもしれないが、ゲームの大容量化が始まった1990年代後半から30年近く経った現在も、ムービーに対する批評的アプローチが、とりわけ日本製の大作ゲームにおいてなかなか進化できずにいるのは奇妙なことだ。


1980年生まれの筆者による懐古趣味に過ぎないのかもしれないが、冒頭で述べた1992年発売の『ファイナルファンタジーⅤ』、その前年に発売された『ファイナルファンタジーⅣ』のほうが、ゲームにおいて物語ることの可能 / 不可能に意識的だった。箱庭を見下ろしたような素朴なドット絵で表現できることはわずかで、離ればなれになった恋人同士が再会を喜んで抱擁するシーンは人形劇のように簡易で擬似的なものだった。だが、そこにはプレイヤーが表象の不足を想像力で補う余白があり、その場に自分が立ち会っているという感覚を強く感じさせるものでもあった。想像力は、ゲームの仮想世界と現実のプレイヤーの関係をつなぐ架け橋になる。
あまりにも精巧につくられた今日主流のゲームには余白の生まれる余地が少ない。あるいは精巧すぎる空間における余白は、単に綻びや欠落としてとらえられてしまう。リアルな人間ドラマを志向する『龍が如く8』は、ムービーパートにおいてもリアル路線を選択せざるをえないが、それがかえって表現を狭めている。これは『龍が如く』シリーズに限った課題ではない。
『龍が如く8』の、つくりこまれた広大なハワイの街を歩き回る経験は楽しい。さまざまなスポットで仲間との会話が発生したり、思わぬ出会いから始まるイベントやミニゲームの偶発性は、知らない街を散策するときの好奇心と歓びに近い。また、現代日本の諸問題を反映させた物語も、エンタメ的に戯画化されてはいるが実際の歴史に漸近している。これらに対して、映画あるいは演劇の生真面目な模倣に留まるムービーパートの洗練はいまだ道半ばだろう。
ゲーム・オブ・ザ・イヤーを受賞した『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』や『エルデンリング』、eスポーツの人気タイトルとして定着した『ストリートファイター6』の成功で日本発のゲームはかつての勢いを取り戻しつつある。オープンワールドやeスポーツといった海外主流のジャンル・トレンドでそれらが成功を収めているのは、固有の文法をそれぞれが発明し、大切に培ってきたからだ。マージナルな裏社会と現代都市のウォーキングシミュレーターとしての『龍が如く』にも固有の文法がある。それはより鋭く、より豊かに育てていけるはずだ。
