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「これは物語なんかじゃない 僕の人生だ!」
話を戻そう。そのように、いかにもポストモダン風の批評を喚起させる本作だが、一方で、素朴な価値相対主義やありがちな不可知論に陥っているわけでは決してないというのも、是非とも見逃したくない点だ。つまりこの映画は、より根底的な次元においても「実在」や「真実」へ不信を投げかけようとしているのではなく、むしろその存在をなんとか擁護しようとしているように感じられるのである。
どういうことか。そもそも、先に触れた「認識論的相対主義」は、あくまで認識の次元での相対主義を主張するのであり、例えば社会的な諸価値や、あるいは実在という概念それ自体の成立を退けるわけではない(それゆえ原則的には、不可知論と親和的なニヒリズムや、「真実」への根源的な懐疑を招来してしまうこともないだろう)。万人が共有する事物について絶対的な認識というものは存在しないかもしれないが、だからといって、認識という次元以前の実在そのものが脅かされることはないし、出来事を認識する各主体の視点が相対化されるからといって、出来事それ自体が存在しない(しなかった)わけではない。グレイシーや周囲の人々の矛盾を孕んだ言動によって、エリザベスが追い求める「真実」についての「認識の」絶対性がいくら揺らいだとしても、当然ながら、件の事件の実在が揺るがせになることは決してないのだ。
映画の終盤に、このことに関連する重要なシーンがある。ある夜、エリザベスがジョーと事件について会話を交わす。そこでエリザベスは、一連の事件とそこから続く悲劇的な現実について、口を滑らせて「こういう物語は……」と表現してしまう。それに対しジョーが、「これは物語なんかじゃない 僕の人生だ!」と激昂するのである。
これは、単純な懐疑主義や不可知論とは隔絶した、事件の実在の側から発せされた叫びであり、それまで映画を(エリザベスが事件に対してそう向き合ってきたのと同じように)俯瞰的な視点で認識可能な物語としてスクリーンのこちら側から鑑賞してきた(見透かしてきた)つもりの受動観察者である私たちをも、したたかに叱りつける一言である。件の事件は、既に社会的な記憶も薄れつつあり、あらゆる者たちの語りの蓄積の中に埋没していってしまったかもしれないが、(作中で事件の担当弁護士であったモーリスがエリザベスに述べたように)彼らの人生に突然訪れた実在の事件として、「傷つかなかったものはいない」のだ。
