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苦しみときらめき、矛盾を抱えるプリシラの「生」が丁寧に描かれる
かつてプリシラが、本作の原案となった自伝的書籍『私のエルヴィス』を刊行した1980年代当時、多くの好ましからざる反応を浴びせられたという事実からすると、この映画の存在そのものに、エンターテイメント界を取り巻く環境の日進月歩ぶりを見る思いがするのが率直なところだ。実際、ここに描かれている様々な「プリシラの目を通した世界」には、現代のフェミニズムの観点から論ずるべき多くのトピックが映し出されている。
例えば、外で仕事を行う夫エルヴィスと対称を描くように、プリシラを「家庭」の中に閉じ込め自己表現から遠ざけようとする「ドメスティックイデオロギー」の問題。あるいはまた、「自分好み」の装い以外を許そうとしない独善的かつ権威主義的な夫の姿勢や、エルヴィスを取り巻く「ボーイズクラブ」的なホモソーシャル空間、夫としての育児への関心の低さなど、現代の観客であれば、ジェンダーや家父長制度に関連する多くの問題提起が映画の中に散りばめられていることに気づくだろう。私達現代の観客が、何かと副次的な存在に押しやられてきたプリシラがいかにして自律的な生を獲得するに至ったのかを追体験するにあたって、そうした視点は是非とも欠かせないものになるはずだ。

一方で、特定の登場人物の振る舞いや思考を即座に断罪したり、反対に称揚したり、なにがしかの問題提起へと完全に収斂させてしまうことがないというのもあわせて注目すべき点だろう。
プリシラは、時間をかけて夫エルヴィスの絶対的な権力から離脱し、自らのアイデンティティを模索していった体験を持つが、一方で、1973年の別離から現在に至るまでエルヴィスを慕い続けているという。そんなプリシラの内面と原案に忠実であろうとしたというコッポラも、恋人としてのエルヴィス、あるいは家庭人としてのエルヴィスの問題ある人格・振る舞いを、現在の社会通念から遡って躊躇なく断罪しようとはしていない。
どちらかといえばコッポラは、プリシラの視点を通じ、過日の甘い蜜月と苦悩の両方が紛れもなく彼女の「生」の一部である他なかったという事実を、これまでの彼女の作品がそうであったのと同じように、丁寧に描き出そうとしているようである。逆に言えば、ある種の矛盾を孕み、当人でさえ割り切りのきかないビルドゥングスロマン(*)の苦しみときらめきこそが、コッポラ作品の魅力の中核を成し続けてきたということを、改めて思い知らせてくれるのが、本作『プリシラ』であると言えるかもしれない。
*編註:若い人物を主人公に、その人格形成や、内面的な成長の過程を描いた長編小説のこと。
