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岡本太郎と赤瀬川原平は、話し相手が学校にいなかった思春期の理解者
─アートに興味を持つようになったのは、いつからですか?
さらさ:子どもの頃から仮面とか土偶とか、民芸品が好きで。民藝館に行きたがったり、旅行先でもアウトドアよりも陶芸体験をやりたい子どもでした。だから高校生になって、岡本太郎と赤瀬川原平の存在を知ったときは感動したんです。ちょうど思春期で、学校には話が合う子がいないし、誰にもわかってもらえないと感じていたから、「わかってくれる人がいた」って、救われるような気持ちになりました。
─話が合う友人のような存在だったんですね。どういうきっかけで2人のことを知ったんですか?
さらさ:お父さんがサーファーで、カリフォルニアのカルチャーが好きな人だったから『ウッドストック』とか、ヒッピーカルチャーには馴染みがあったんです。それで1960年代のカルチャーやムーブメントついて調べていて、1970年の『大阪万博』の太陽の塔から岡本太郎を知ったり、現代アートの本を読んで、赤瀬川原平ってめっちゃ面白いと思ったりして。それで美術を勉強したいと思い始めて、デッサンの経験もなかったので、受験にデッサンがない学科を探しました。
─さらささんは女子美ではアートプロデュースを学んでいたんですよね。
さらさ:ただ、1年ぐらいで行かなくなりました。大学を辞めてからは、地元にある武蔵野美術大学出身の女性がやっている現代アートの私塾で、油絵とか建築史とか美術史を習って、その後は美学校の「現代アートの勝手口」というコースにも半年くらい通っていました。
