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物語終盤で渇望される「水」
史実にあるように、長谷川は小林と同棲するようになった後、極度の潔癖症となり、ふたりの日常生活は支障をきたすようになる。三人の関係性も、やがて破綻を迎えていくことだろう。
田中の表現に従えばこういえるのではないだろうか。三人を「ひとつの世界」たらしめていた雨が降らなくなってしまったら、その「ひとつの世界」にヒビが入っていくのは当然なのではないか、と。
その傍証として、映画の冒頭から登場していた重要なイメージも、姿を見せなくなる。それは、果実である。柿、あるいはリンゴ。したたるような水分をたたえていた果実が、『ゆきてかへらぬ』の世界から退場するのだ。小林の家へと越していく長谷川に中原が渡そうとする独特の「餞別」もまた乾いていることを、観客は目の当たりにする。
三人はそれぞれに、まるで干上がってしまった世界のなかで渇きを癒そうとするように、「水」を求めるようになる。小林が長谷川と体を重ねるのも、そうした渇望の最中の出来事だ。長谷川と中原がそれぞれ劇中で、あるものへと異様な様子で手を伸ばすシーンも、強く印象に残ることだろう。
時の流れと共に迎える顚末、そこでの中原の姿を、小林がどんな言葉で表現するのかに、耳を澄ませてほしい。観客によってはその際、物語前半で登場した、中原と同じく夭逝したことで知られる詩人・富永太郎(田中俊介)が失っていたものについて、ハッと思い出す人がいるかもしれない。

映画の最後に小林が手にしているもの、長谷川が向かっていく先にあるもの──すべてをここに記しはしない。そのうえで、やはり田中陽造が脚本にしたためた『ゆきてかへらぬ』を貫いているのは、「水」の美学だといえるのではないだろうか。エンドロールで鳴り響く、主題歌・キタニタツヤ“ユーモア”の歌詞も、こうした「水」の美学に連なるようなものになっている。それらの詳細は、ぜひスクリーンで確かめられたい。
田中陽造の脚本が描き出す「ひとつの世界」──それは降った雨がやがて乾くように、仄めかされることしかない。だがその明滅するような、指差した瞬間に霧散してしまうようなドラマツルギーならではの、見事さがあるのだ。若人の三人が過ごした瞬間的な季節、その瑞々しい関係は、まるで飛び散る雨粒である。
『ゆきてかへらぬ』

2025年2月21日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開
監督:根岸吉太郎
脚本:田中陽造
出演:広瀬すず、木戸大聖、岡田将生ほか
配給:キノフィルムズ
©︎2025「ゆきてかへらぬ」製作委員会