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広瀬すず達に等しく降る雨。『ゆきてかへらぬ』に見る脚本家 田中陽造の「水」の美学

2025.2.21

#MOVIE

大部屋俳優・長谷川泰子と詩人・中原中也、文芸評論家・小林秀雄をめぐる「奇妙な三角関係」の実話を、広瀬すず、木戸大聖、岡田将生の共演で描いた劇映画『ゆきてかへらぬ』が2月21日(金)より公開となる。

本作の脚本は、『セーラー服と機関銃』『ツィゴイネルワイゼン』などを手がけてきた脚本家・田中陽造の筆によるものだ。

田中陽造の魅力、そこから見えてくる本作の魅力を、田中作品に影響を受けてきたという編集者・宮田文久に論じてもらった。

40年以上前に書かれた幻の脚本

その映画の入り口は、さまざまな観客たちに、広く開け放たれている。大正の世において、大部屋俳優として活動していた長谷川泰子と、夭逝した詩人・中原中也、文芸評論家・小林秀雄をめぐる、文学史上あまりに有名なエピソード──若人三人の、単なる三角関係ともいえないような「奇妙な関係性」を描いた『ゆきてかへらぬ』のことだ。中原中也と同棲していた長谷川泰子が、後に小林秀雄と同棲をはじめるも、三者のあいだでしばらく持続した不思議な関係が描かれる。

観客のなかには、たとえば、俳優たちの姿に魅了される人がいるだろう。広瀬すず演じる、いますぐにでもスクリーンのなかから逃げ去ってしまいかねないほどのエネルギーをほとばしらせる長谷川泰子。木戸大聖が演じる、剥き出しのたましいだけで生きているような中原中也。岡田将生が扮する、熟す前の若き知性を存分に、それでいてさっぱりとした空気とともに漂わせる小林秀雄。

三者の関係性は、近年盛り上がってきた文豪をめぐるマンガ・アニメ、そしてゲームのファンにとっても魅力的であるはずだ。約半世紀にわたって日本映画を長らく支えてきた、そして本作が16年ぶりの監督作となる根岸吉太郎の手腕に注目する映画通もいる。

そうした多様な観客たちが、エンドロールで目にするクレジットがある。

「脚本 田中陽造」

その名前は、『ゆきてかへらぬ』という映画の世界をひもとくための、重要なカギになる。なにせ本作は、40年以上前に書かれたという幻の脚本の映画化を、根岸監督が熱望したことからはじまっているというのだから。

ただ同時に、その「田中陽造」という名前は、主人公たちの関係性と同じく、いやもしかしたらそれ以上に、映画史のなかで謎めいたものであり続けていることも、またたしかなのではないだろうか。本稿は、こうした謎へとできるかぎり迫りながら、文章の後半で『ゆきてかへらぬ』の世界を読み解くことを目的としている(主人公たちの関係性が既に知られているのと同様に、おそらく本作において決定的なネタバレは存在しないが、いずれにせよ観客一人ひとりがスクリーンで目撃すべき点については明かさずに論を進める)。

広瀬すず演じる長谷川泰子(左)と、木戸大聖演じる中原中也(右)。

日本映画史に刻まれる田中陽造の作品群

今回の脚本も収録された『ゆきてかへらぬ 田中陽造自選シナリオ集』(国書刊行会)が、映画公開とほぼ時を同じくして刊行されるというから、田中をめぐる謎はこれからゆっくりと解かれるであろうし、上記したようにさまざまな関心を抱く観客にとっても、有力な手がかりになるはずだ。

そのうえでなお、謎は残り続けるだろう。田中が1960年代後半から、60年近くの月日のなかで私たちの世界に満たしてきた霧は、そんなにすぐには晴れないほど濃い。そして、あたり一面の霧のなかでさまようなかに、『ゆきてかへらぬ』をめぐるヒントもある。

往年の映画ファンであれば、田中陽造の名前は、至るところで目にしてきているものだ。鈴木清順監督の大正浪漫三部作『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)、『陽炎座』(1981年)、『夢二』(1991年)や、相米慎二監督の『セーラー服と機関銃』(1981年)、『魚影の群れ』(1983年)、2024年12月より4Kリマスター版が全国順次公開中の『夏の庭The Friends』(1985年)、そして根岸監督の『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』(2009年、第64回毎日映画コンクール脚本賞受賞作)などの、日本映画史に刻まれた作品群。

『夏の庭The Friends』4Kリマスター版は、現在全国で順次公開中。4月19日(土)からは下高井戸シネマでの上映が予定されている。

あるいは曽根中生監督とのタッグを中心にしつつ、にっかつロマンポルノを支えた功労者としても知られる。曽根×田中タッグにはロマンポルノ以外にも、あまりにも荒唐無稽で観る側の腹がよじれる『嗚呼!!花の応援団』シリーズ(1976~77年)がある。筆者がイチオシしたい作品だ。

とはいえ、こうして挙げてきた脚本作品のラインナップからしても、その作風を一言でいいあらわすことが、非常に難しいことが痛感される。

「一つの世界を作りさえすればそれでいい」

脚本家の仕事というのは、映像が完成するまでの多くの工程のなかで痕跡が見えづらくなるものではあるし、そもそも都度の発注に応じながら書きあげていくことがほとんどなのだから、脚本家の独自の世界観というのは名指しづらい面もある。

だが、それでもたいていの有名脚本家が携わった映像であれば、観終わったあとに「ああ、この脚本家らしいな」と素直に思えるはずだ(近年多くの話題作を手がける脚本家たちを思い浮かべてほしい)。

もちろん、田中脚本作を観たあとにも、そうした感慨はある。いや、むしろそこらの映画では到底味わえないような衝撃を、田中の脚本は観客たちにもたらしてきた。

では、田中脚本を田中脚本たらしめている特徴はなんだろうか──。そう問われれば、思わず口ごもる人は少なくないのではないだろうか。田中脚本であるがゆえの何かはビシビシと伝わってきているのに、その「田中印」たる特徴を言葉にしろといわれると、それを明示することは、なぜなのか、なかなかに難しい。

たとえば映画について語り、綴る名手であり、また優れた聞き手でもあった故・山根貞男をもってしても、『田中陽造著作集 人外魔境篇』(文遊社、2017年)に収録された1981年のインタビューでは、田中の核心をなかなか探り当てられずにいる。

そこでは、田中がなんとか「自分がない」という言葉をこぼすのがやっと、という具合なのだ。しかも困ったことに、この田中の「自分がない」という言葉は、決して田中の脚本が無個性であることを意味しない。むしろ強烈な個性があるのに、その内実を田中自身も、他人も簡単に指し示すことができず、苦し紛れに口にされるのが「自分がない」という一言なのである。

しかし、そうした雲をも掴むようなやりとりのなかで、田中がふと、『ゆきてかへらぬ』を考える手がかりにもなるようなことを話している。

「脚本(ほん)というのは一つの世界を作りさえすればそれでいいんじゃないかという思いがあるんです。要するにブリューゲルならブリューゲルみたいな、いっぱいいろんな人がいて、あれを(中略)ドラマの中で全部出せば、それは一つの街であるし、一つの人間世界を切りとったことであるし、それが自分なりにできたと思ったら、それでその脚本(ほん)はいいんじゃないかというのがあります」

──『田中陽造著作集 人外魔境篇』(文遊社、2017年)

ブリューゲル『バベルの塔』1563年、美術史美術館(オーストリア・ウィーン)所蔵

画面の端々で、それぞれに人が語らったり、あるいは働いていたりするブリューゲルの絵画のように、あちらこちらで人々がうごめいている、そうした「ひとつの世界」を描き出すことができれば、それは自分にとって、いい脚本である──。そう、田中は述べている。

ほとんど謎かけのようなのだ。しかしこの田中の言葉を胸に『ゆきてかへらぬ』を眺めていると、まるで束の間、目が醒めるようにして像が結ばれていく。

『ゆきてかへらぬ』を貫く「水」の美学

田中がいう「ひとつの世界」を描き出すにあたって、『ゆきてかへらぬ』全編を通して貫かれているもの。それは、雨に象徴される「水」の美学である。

長谷川泰子(広瀬すず)、中原中也(木戸大聖)、小林秀雄(岡田将生)。三人に上空から等しく降るのは、雨であり、雪である。眠っていた長谷川が目を覚ます、そのオープニングからして、遠くから徐々に聞こえてくるのが雨の騒めきであるということは、このシーンが『ゆきてかへらぬ』のドラマツルギーの核心を、静かに宣言する場面であることを意味している。

「ひとつの世界」に、等しく降る雨。オープニングが、屋根の上の長谷川の姿、そして真上から見下ろす──後に中原の姿だとわかる──傘を差す人の姿へと連なっていくことは、示唆的だ。まるでブリューゲルの『バベルの塔』のように、人々のうごめきを、スッと俯瞰するような視点が常に見え隠れする。

『ゆきてかへらぬ』では冒頭から、本当によく雨や雪が降る。中原の詩の言葉を借りれば、「今日も小雪の降りかかる」世界が、そこにはある。その最中を、長谷川と中原が傘を差して歩く。

そして小林の鮮やかな初登場シーンは、激しい雨のなかをずぶ濡れになって、長谷川と中原が暮らす家に飛び込んでくるものとして訪れる。

三人の頭上からは、絶えず雨粒が叩きつけてくる。誰もが、水気を帯びている。『ゆきてかへらぬ』は、たしかに愛やら恋やら友情やら、あるいはそのどれでもない想いをめぐる映画であるかもしれないが、しかし同時に、そうしたすべてを相対化するような雨が降りしきる「ひとつの世界」をめぐる映画でもあるのだ。

だが雨は、物語が後半に入っていくにつれ、ピタッとやむ。

しかも驚くことに、長谷川が小林の家へと引っ越していく、その直前に、土砂降りだった雨がピタリとやんでしまうのだ。ここから終盤にかけて、『ゆきてかへらぬ』の世界に雨が降ることは、ない。まるで空が、雨粒を落とすことを忘れてしまったみたいに。

物語終盤で渇望される「水」

史実にあるように、長谷川は小林と同棲するようになった後、極度の潔癖症となり、ふたりの日常生活は支障をきたすようになる。三人の関係性も、やがて破綻を迎えていくことだろう。

田中の表現に従えばこういえるのではないだろうか。三人を「ひとつの世界」たらしめていた雨が降らなくなってしまったら、その「ひとつの世界」にヒビが入っていくのは当然なのではないか、と。

その傍証として、映画の冒頭から登場していた重要なイメージも、姿を見せなくなる。それは、果実である。柿、あるいはリンゴ。したたるような水分をたたえていた果実が、『ゆきてかへらぬ』の世界から退場するのだ。小林の家へと越していく長谷川に中原が渡そうとする独特の「餞別」もまた乾いていることを、観客は目の当たりにする。

三人はそれぞれに、まるで干上がってしまった世界のなかで渇きを癒そうとするように、「水」を求めるようになる。小林が長谷川と体を重ねるのも、そうした渇望の最中の出来事だ。長谷川と中原がそれぞれ劇中で、あるものへと異様な様子で手を伸ばすシーンも、強く印象に残ることだろう。

時の流れと共に迎える顚末、そこでの中原の姿を、小林がどんな言葉で表現するのかに、耳を澄ませてほしい。観客によってはその際、物語前半で登場した、中原と同じく夭逝したことで知られる詩人・富永太郎(田中俊介)が失っていたものについて、ハッと思い出す人がいるかもしれない。

映画の最後に小林が手にしているもの、長谷川が向かっていく先にあるもの──すべてをここに記しはしない。そのうえで、やはり田中陽造が脚本にしたためた『ゆきてかへらぬ』を貫いているのは、「水」の美学だといえるのではないだろうか。エンドロールで鳴り響く、主題歌・キタニタツヤ“ユーモア”の歌詞も、こうした「水」の美学に連なるようなものになっている。それらの詳細は、ぜひスクリーンで確かめられたい。

田中陽造の脚本が描き出す「ひとつの世界」──それは降った雨がやがて乾くように、仄めかされることしかない。だがその明滅するような、指差した瞬間に霧散してしまうようなドラマツルギーならではの、見事さがあるのだ。若人の三人が過ごした瞬間的な季節、その瑞々しい関係は、まるで飛び散る雨粒である。

『ゆきてかへらぬ』

2025年2月21日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開
監督:根岸吉太郎
脚本:田中陽造
出演:広瀬すず、木戸大聖、岡田将生ほか
配給:キノフィルムズ
©︎2025「ゆきてかへらぬ」製作委員会

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