奇跡だ、と何度もうれしそうに、ミュージシャンの石橋英子は口にした。自身のライブパフォーマンスと共に上映する映像を、映画監督・濱口竜介にオファー。『GIFT』として企画が立ち上がっていくなかで、映画『悪は存在しない』も成立──その「奇跡」的なプロセスには、カルチャーを形作る私たちへの問いかけも潜んでいるように見える。『GIFT』と『悪は存在しない』に登場する、樹々の奥に潜む野生の鹿のごとく。
声や音もつき、石橋が音楽を手がけた映画『悪は存在しない』は「第80回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞」を受賞し、待望の全国公開を4月26日に控えている。『GIFT』もまた国内外で上演され、サイレント映画と拮抗する石橋の圧巻の演奏が、オーディエンスを未体験のゾーンへと導いて反響を呼んでいる。次々と変容していく、そのプロセスの最中に、石橋に話を聞いた。
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失われた風景への思いがきっかけ。濱口竜介監督との「旅」を決心
―音楽と映像の刺激的な関係に満ちている『悪は存在しない』と『GIFT』ですが、『GIFT』がまず企画として立ち上げられたとのことですね。
石橋:ことの発端は、海外のプロモーターの方から「映像と一緒にライブパフォーマンスをやってみる気はないか」と聞かれたことでした。最近海外では、ミュージシャンが映像と共にパフォーマンスをするというイベントが多いんですね。その上演会場はいくつもありまして、実際に今回私もヨーロッパをはじめとして国内外で『GIFT』のパフォーマンスを行ってきていますが、場所は本当にさまざまです。
先日、いわゆるシネマコンプレックスで上演したときは、みなさんお菓子を食べつつ、ビールも開けつつ、という感じでした(笑)。一方でとても荘厳なシアターでやるときもあります。演奏する私としても、会場によってスクリーンの大きさが違うので、映像の見え方がかなり変わってくるんですよね。
―まさにそうしたイベントが多い昨今の海外の動向から、『GIFT』という企画自体も立ち上がった、と。
石橋:海外から問い合わせをもらったときにパッと頭に浮かんだのは、抽象的な映像と一緒にライブパフォーマンスをするといったものです。ただ私自身そうした作品はいくつも見たことがありますが、自分がやるということがピンとこなかったんです。
加えて、映像を作るとなればたくさんの人に参加いただかないといけないし、お金もかかります。だから継続的にライブパフォーマンスをしていけるものにしたいと感じました。そこで思いいたったのが、自分がこれまでの人生で親しんできた映画のような、「物語のある映像」でした。そうした映像のほうが、私も毎回違って見えるかもしれないし、演奏も同じものにならないんじゃないかなと思ったんです。
―その後、どのように企画が進展していったのでしょう。
石橋:タイミングとしては、2021年の終わりごろに濱口さんにお声がけしました。2021年の夏以降、濱口さんは『ドライブ・マイ・カー』が各映画祭で受賞ラッシュだったので海外を飛び回っていらして、12月に公開した『偶然と想像』の上映がある程度落ち着いた時期だったように思います。濱口さんにお願いした理由としては、もちろん『ドライブ・マイ・カー』の経験が背景にありますが、私がドキュメンタリー作品『東北記録映画三部作』(酒井耕・濱口竜介監督)を見たことが大きかったように感じます。
―東日本大震災の被災者の「語り」にフォーカスした作品ですね。
石橋:震災前の風景のようなものが立ち上がっていく感じがして、この作品に惹きつけられたんです。私自身、「失われた風景」に強い関心を抱いていて、以前にも、自分の父や祖父の写真をきっかけにして、『The Dream My Bones Dream』(2018年)という満州の歴史についてのアルバムを作ったこともありました。
―石橋さんの祖父が満州の電気会社で働かれていて、その息子である父親が現地から引き揚げていらした方だということに端を発したアルバムでした。
石橋:戦争で心に傷を負った人が戦争中に引き戻されるフラッシュバックや、失われた記憶といった、ときにSFにも通じるようなテーマはずっと気になってきているんです。濱口さんは、まさにそうしたテーマに連なる作品を手がけていらっしゃる。ライブパフォーマンスの映像をお願いしたら、すごく充実した「旅」をご一緒できるのではないかと思い、お話ししたんです。